写真だからこそ、伝えられることがある。それぞれの写真家にとって、大切に撮り続けている日本のとある地域を、写真と文章で紹介していく連載です。
語り継ぐもの
私にとって故郷とは何だろう?2011年の巨大な津波で宮城県・女川町の7割が壊滅し、私は両親と実家である写真館を失ったことで、町と自分の関係性が途絶えてしまう感じがした。工事が進んで更地になり、目印にしていた建物さえなくなっていくにつれ町の記憶が薄れていき、同時に自分の思い出も薄れていく侘しさも感じていた。同世代の友人たちは家業を継ぎ、漁業を復活させたり、女川に戻ってきて起業したり、変わりゆく町の姿に新しい未来を期待し、次世代に誇れる町づくりをしようと一丸となっていた。そんな友人たちの姿を見て私自身も励まされ、嫁ぎ先の神奈川県から何度も女川へ通うことになった。
震災から4年あまりが過ぎた頃、「この結婚写真はあなたのお祖父様が撮影したものよ」と、町の人に見せていただく機会があった。色あせた台紙にスタジオで撮影したモノクロームの婚礼写真。私が生まれた頃には祖父はすでに病気がちで、祖父のことをほとんど知らなかった私にとって、初めて見る写真家の祖父の仕事であった。ほとんどの人が今回の震災で家を失ったために、こうして古い写真を今も持っていること自体がとても貴重である。50年以上も前の結婚式の写真から、祖父が一枚の写真に込めた記録を通し、女川の記憶へと想いを馳せることができた。
もし私が写真館を継いでいたら3代目になる。祖父は1930年に女川町へやってきて町で最初の写真館を始めたらしい。3年後の1933年、昭和三陸津波が起こったので、予測ではあるが祖父も被害を受けただろう。まだ父や叔父が生まれていない時代なので、祖父がどのように津波から立ち上がったのかは誰も知る由もないのだが、どうにか商売を続け、父や叔父たちを育ててきたのだと想像する。さらに1960年に南米チリで発生した大地震により起きた津波が日本沿岸まで達し三陸一帯が被害を受けた。ちょうど父が21歳で写真館を継いだ頃で、「死者は出なかったが、天井1階まで海水が上がって後片付けが大変だった」と生前父が語っていた。被害があったものの祖父と父は写真館を再開させた。
震災からこの8年間の間に、記念撮影を頼まれることも多々あった。昨春、近所に住んでいた岡さん一家から、震災の年に生まれた娘さんが小学校へ入学するということで家族写真を頼まれた。もう新しい住宅へ引っ越しているのだが、仮設住宅から眺めていた桜が忘れられないと言っていたのを思い出し、その場所で撮影することを提案した。私は家族の肖像も大切だと思うが、できるだけ環境を含めた写真を残そうと意識している。写真にはその日の出来事だけではなく、家族の6年7か月間の仮設住宅で過ごした喜びも辛さも含まれていて、写真を見るたびにきっとその時代の話をするに違いない。
岡さんは2007年にご両親の家を改築した記念に撮った写真を見せてくれた。この地方の独特なスレートを使った外壁が特徴の素敵な家の前で、大工さんらと共に笑顔でカメラを見ている。撮影したのは私の父だ。この家は残念ながら津波で流されてしまったが、家族の歴史をこうして写真が語り継いでくれている。桜と共に撮った新しい写真も、その次の世代へと遺す写真になってくれたらいいなと願う。
父や祖父が撮影した家族の記念写真は、家族の重要性を私に教えてくれる。そして私が女川の人々と関わりを持つことは、私の失いかけたアイデンティティを取り戻す助けとなり、私が帰属するべき場所を示してくれる。たとえ町が変化し続けていても、人々はその土地に、家族の歴史を紡いでいく。人は生まれ育った土地を忘れることはないだろう。