瀬戸内海に浮かぶ大小28の島々からなる「塩飽諸島」。戦国時代から江戸時代には海運業の要所としても栄え、今は、3年に一度行われる「瀬戸内芸術祭」によりアートの島としても注目され始めています。さて、「塩飽諸島」は何と読むのでしょうか?この記事では、「塩飽諸島」の地名の由来や歴史、観光スポットをご紹介します!
正解は「しわくしょとう」
「塩飽諸島」は、「しわくしょとう」と読みます。地名は、土地の地形が由来となっているようです。
本州と四国が最も接近する備讃瀬戸の海域に大小28の島々からなる塩飽諸島があります。狭い海域に多くの島が点在し、その間を潮が複雑に流れ、ぶつかりあい「潮が湧く」ように見えることから「塩飽(しわく)」と呼ばれるようになったと言われています。
塩飽諸島とは、備讃瀬戸(香川県・岡山県)に浮かぶ28の島々であり、そのうち香川県丸亀市に属するのは、本島、牛島、広島、手島、小手島の5島(有人島)です。今回は、この5島についてご紹介します!
丸亀港からフェリーで35分!本島、塩飽勤番所
戦国時代から江戸時代、信長、秀吉、家康ら時の権力者に認められ、全国にその名を馳せた塩飽水軍。その船乗りたちの本拠地として栄華を極めたのが本島(ほんじま)です。海運業の発展とともに、船大工の技術も高まり、今も島のあちこちにその名残が息づいています。
塩飽勤番所は、塩飽諸島を治めていた政所跡。国の史跡に指定されています。信長、秀吉、家康が自治を認めた朱印状をはじめ、塩飽水軍に関わる貴重な史料が数多く展示されています。
塩飽の経済・政治の中心地、笠島まち並保存地区
江戸末期から昭和初期にかけて、城下町として発展した笠島の集落。国の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けています。港から入ってくる敵からの襲撃に対応できるよう、見通しがきかないように曲げられた道やT字路が見受けられます。
ほかにも、魅力がたっぷりの塩飽諸島
広島の塩飽諸島最高峰の山「王頭山」でトレッキング
王頭山(おうとうざん)の山頂付近には、王頭砂漠といわれる石庭のような空間が広がります。王頭山の西に位置するのは、弘法大師空海が修行したとされる霊峰・心経山(しんぎょうざん)。「しま山100選」に選定されています。
広島の「尾上邸」で歴史を感じる
江戸時代に海運業で栄えた尾上(おのえ)家。金毘羅石灯籠などの石造物を青森まで運んでいました。手積みされた石垣と、およそ200年前に建てられたケヤキ造りの家屋は、まるで城の石垣のようで見ごたえがあります。2021年7月には、宿泊施設としてオープンする予定です。
悠久の時が流れる石の島、本島と広島
日本の近代化が進んだ明治後期から昭和初期にかけて建てられた、日本銀行本店本館や明治生命館など歴史的建造物は、岡山県と香川県の間に位置する備讃諸島で産出された花崗岩が使われました。400年の長きにわたり、備讃諸島の花崗岩と石切り技術は、日本の建築文化を支えてきたのです。
島には、石とともに生きてきた人たちの産業文化が息づいています。世紀を超えて石を切り出した丁場は、壮観な景観を形成。船を操り巨石を運んだ民は、富と迷路のような集落を遺しました。今もなお、石にまつわる信仰や生活文化、芸術が継承されています。
このような石の島のストーリーは、日本遺産に認定されています。
せとうち石の島
https://stone-islands.jp/
小手島を彩る「源平桃」
一本の木に紅白の花が混じって咲く桃の木は、源氏の白と平家の赤にちなんで源平桃と呼ばれます。小手島ではいたるところに植えられています。見頃は毎年4月上旬頃で、色合いはその年の気候によって変わるそう。
牛島にある無間の鐘「極楽寺の梵鐘」
極楽寺の梵鐘は、撞いた人は一度は栄華を極められるが、やがて没落するという伝説が残っています。
手島の名産は幻のとうがらし「香川本鷹」
香川本鷹は、昭和の半ば頃までは盛んに生産されていたものの、徐々に生産量を減らし、ついには途絶えてしまっていました。地元の生産者さんの努力もあり、2006(平成18)年に復活。大きく、上品な香りと辛みが強いのが特徴。初夏には白い花を咲かせ、青い実が鮮やかに色づきます。
自然や風景はもちろん、暮らしてきた人たちの歴史や文化。それは島にしかないもの。塩飽諸島にしかないものを感じに、ふらっと島へ旅に出てみてはいかがでしょうか。
参考:まるがめせとうち 島旅ノート
https://www.marugame-happylife.jp/islands/
取材協力:
丸亀市
https://www.city.marugame.lg.jp/
丸亀市観光協会
https://www.love-marugame.jp/