愛媛県や鹿児島県、宮崎県で使われる方言、ラーフル。何のことかわかりますか?子供の頃、学校で必ず目にしていたあるものです。愛媛新聞が2014年に実施したアンケート調査では、当時の松山南高校生、同校教職員、愛媛大学生の県内出身者がそれぞれ一定の割合でラーフルを知っていると回答しています。明治頃には西日本を中心に広く使われていたとされる言葉でしたが、時代を経て段々と使われなくなりました。答えは・・黒板消し。いったいなぜそのように呼ばれるようになったのでしょう。実は現在も黒板消しをラーフルと呼ぶ地域の共通点には「蘭学」がありました。
ラーフルはオランダ語説 「ラーフル考」より
鹿児島工業高等専門学校教授(当時)の上村忠昌さんが2000年に発表した論文「ラーフル考」では、語源はオランダ語のrafel「こすること、ほつれ糸(など)」が有力とされています。
オランダといえば、キリスト教が広まることを恐れた鎖国中の日本と交流のあった唯一の国。
当時の日本はオランダを通じて西洋の学問や文化、技術を学んできました。
上村さんによると、徳川幕府の長崎海軍伝習所で授業に黒板を用いていたことがオランダ人教官カッテンディーケ『長崎海軍伝習所の日々』の記述にあり、ラーフルという呼称が使われていたかは不明なものの、日本における黒板使用は蘭学とともに始まったとみられます。
明治に入ると、学校教育現場でも黒板の使用が始まりましたが、明治14年に大阪の小学校で学校用品としてラーフルを購入した記録が見つかります。そして物流の拠点であった大阪から西日本に言葉が広まったと考えられます。
ところで日本は幕末に開国すると他の欧米諸国の影響が強まり、「蘭学」の影響は徐々に薄れてきました。
いったん黒板消しの呼び名として広まりを見せつつあったラーフルですが、教育現場でも他の国の影響の広がりを受け、呼称としては廃れたのでは、というのが上村さんの説です。
ではなぜ愛媛県や鹿児島県、宮崎県では言葉が残っているのでしょう。
上村さんは、ここに「蘭学」の共通点を見出しました。
ラーフルが現存している地域は、薩摩の島津斉彬(しまづ なりあきら)、長州の毛利敬親(もうり たかちか)、宇和島の伊達宗城(だて むねなり)、肥前の鍋島直正(なべしま なおまさ)という、幕末にかけていずれも藩主自らが蘭学に熱心で、藩士にも大いに学ばせた所だというのです。
各地でオランダ以外の影響が広まる中、「蘭学」が浸透していた地域ではラーフルが根強く残っていったのかもしれません。
愛媛にラーフル、伊達家の影響!?
さて蘭学の影響が残っていたとされる愛媛県。熱心な藩主とは宇和島藩の伊達宗城(むねなり)でした。伊達と聞いて思い浮かぶのは、やはり伊達家17代目であり、仙台藩初代藩主の伊達政宗です。愛媛とどのような関係があるのでしょうか。
歴史を紐解くと、1614年、伊達政宗の長男である伊達秀宗(ひでむね)は父とともに大坂冬の陣に参戦し、その功績により時の将軍・徳川秀忠から伊予国宇和郡十万石を授かり、翌年には宇和島城に入城しました。これが宇和島藩のはじまりです。
宇和島には宇和島城をはじめ和霊神社など伊達藩ゆかりの史跡が残り、また仙台で行われていた「鹿(しし)踊り」が少し形を変えて「八つ鹿踊り」として存在し今もなお続いているなど、伊達家の歴史が息づいています。
ちなみに宇和島では通常伊予弁が使われる愛媛において唯一東京型アクセントの方言を使い、京阪神型の伊予弁とは異なります。四国西南地域でこのような傾向があるのですが、定かではないもののここにも伊達家の影響があるのかもしれません。
さて宇和島での伊達家の統治は続き、八代藩主となったのが伊達宗城です。江戸育ちで水戸徳川家とも親交が深く、後に「幕末の四賢侯」の一人にも数えられる人物で、幕府の政治に積極的に意見をしたり、日本人のみでの蒸気船の製造にも成功するなどし、また明治維新後も政府を代表して日清修好条規を結んだり、外国の来賓を接待する要職に付くなど多くの功績を残した人物でした。
そして蘭癖大名(らんぺきだいみょう)の名に相応しく蘭書を収集したり、幕府に追われた蘭学者の高野長英を一時匿うなどしたことが歴史に残っています。
宇和島藩は宗城の後、九代宗徳をもってその幕を閉じます。しかし代々続いた伊達家の統治により、宇和島藩は廃藩置県が行われた際も、宇和島県として存在し、周辺の県を統合と神山県への改称を経て、現在の県庁所在地である松山を含む石鉄県と合併して愛媛県となるまで存在したほど、四国でも規模の大きな地域でした。
- 宇和島藩のその後
- 1871年 廃藩置県により宇和島県が発足、その後周辺の新谷県、大洲県、吉田県、宇和島県が統合され、改めて宇和島県となる
- 1872年 神山県に改称
- 1873年 現在の県庁所在地である松山市などを含む石鉄県と統合され愛媛県となる
「ラーフルがオランダから宇和島を中心に愛媛に広がり、また全国で西洋学の影響が強まり呼び名が廃れる中でも、辺境の地ゆえ言葉が残ったのでは無いか。」
上村さんの説を宇和島に限ると、このようになるでしょうか。数々の史跡、書物、歴史が証明しているものの、ラーフルからも伊達家が確かに宇和島に、愛媛に存在したロマンを感じます。
愛媛・南予 宇和島市
かつての宇和島藩の中心地、愛媛県宇和島市は愛媛県の南予地方に位置し、温暖な気候に恵まれ、宇和海に面したリアス式海岸では魚や真珠の養殖が盛んに行われています。また傾斜地を生かしただんだん畑での柑橘栽培も盛んな土地です。
伊達家のゆかり以外にも、藤原純友にまつわる海賊の歴史発祥の漁師飯である「宇和島鯛めし」や牛鬼祭り、闘牛など独特な文化が残り、またキャニオニングやシュノーケリングなど自然を生かしたアクティビティも楽しめる宇和島。
そんな宇和島にラーフルから興味を持っていただき、機会があればその歴史を体感しに訪れてみてください。
参考サイト、文献:
・日経Biz Gate 「黒板消し」を「ラーフル」と呼んだら○○県出身!
https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXBASDB08001_08112011000000?
・「ラーフル」考
https://www.osumi.or.jp/sakata/hougen/raful.htm
・宇和島市観光物産協会
https://www.uwajima.org
・愛媛・宇和島観光で絶対におすすめしたい10のこと
https://gurutabi.gnavi.co.jp/a/a_2090/
・シリーズ藩物語 宇和島藩(現代書館) 宇神幸男著