「実践人口」を増やすための合言葉が「やってこ!」である。「やってこ!」が世代を超えた繋がりを生み、ローカルをおもしろくする。実践主義者の言葉は、埋込式でなければならない。
この連載の根っこにあるのは、受け入れがたい環境は、自ら実践的に行動して変えるということ。私自身も10代は貧困、両親の離婚、借金問題と日本の課題を凝縮したような環境にいたが、支えてくれたのはヒップホップだった。筋肉隆々の黒人たちがお金と美女をはべらかす。銃もドラッグも友人の死でさえ日常な世界観は、日本から見ればファンタジー的な魅力も内包しているが、彼らからすれば現実そのものだ。いかにハードな環境で生まれ育とうとも、配られたカードを切りながら人生に立ち向かう。その足搔きと心の揺れから強い言葉が生まれる。そんな音楽性に強く惹かれたのだった。
ではなぜ現在、世界でヒップホップが支持されているのか? 一時代のロックがそうだったように、ヒップホップは“社会を映す鏡”となって苦しき者たちの代弁者となっている。地球規模の格差問題に言及するとキリがないから割愛せざるを得ないが、みんなどこかで強い不安と闘っているし、政治家やメディアの言葉を真に受けていいのか苦慮している。そんな心境で支えとなるのは、音楽フィルターを通した目の前のラッパーになるのではないか。
例を挙げれば、グラミー賞を受賞したケンドリック・ラマーやチャンス・ザ・ラッパーなど、彼らが発するメッセージには社会の問題提起と強く生きる姿勢が埋め込まれている。より多くの人々に届けて、感情を揺さぶる音楽の可能性が「Youtube」や「Spotify」によって広がり続けているのだろう。
ローカルの焦燥を言葉にする。
この構図は日本のローカルシーンにも当てはまる。中央集権的にあらゆる価値や物資が東京に集まる一方で、少子高齢化のビッグウェーブが襲い続ける弱小地方都市には、課題がてんこ盛り。かつて賑わった商店街はスカスカになり、地元に残った友達は景気の荒波に左右されて苦しむ。家業の不振に引っ張られて30代で自殺なんてケースも珍しくない。いくら地方創生や新しい生き方を提唱しようとも、可視化されない不幸はどこも山積みだ。
そんな時代に生まれた若者が熱狂するのはヒップホップであり、ローカルスターと呼ばれるラッパーたちだ。札幌のTHA BLUE HERB、大阪のSHINGO★、山梨の田我流、愛知のC.O.S.A、京都のANARCHYなど、不遇な環境、人生の焦燥、信頼や裏切りを歌詞に詰め込んで若者を鼓舞している。一方で東京生まれ東京育ちのラッパーも人気で、私自身もよく聴いているが、そこにローカル的な泥臭い言葉は比較的少ない。表現方法の違いはあれど、どちらもその土地性を反映し、若者の心を掴んで離さない。
実践主義のエネルギーになる。
ヒップホップをずっと聴いていて思うのは、「共感」には限界があることだ。自己肯定感を満たすコミュニケーションは人間に欠かせないものの、やはり現状打破には黙々と自分自身のやりたいことを貫き通す覚悟が必要だ。より速く進むためには「共闘」の手段を用いるのがいいだろうし、上下の世代を巻き込んでいく「姿勢」も不可欠。小さく小さく積み上げた信頼を原資にして、新たなうねりを生む。言葉を吐く。そして誰かを「鼓舞」して仲間を増やす。そのすべてのやり方をおのずとヒップホップから学んでいたんだなあと。そして大阪の都市部で生まれ育った自分が、気づけばローカル領域を生業にしているのも、必然なのかもしれない。今後もヒップホップから実践のエネルギーをもらっていきたいと思う。