東京都豊島区、西武池袋線・椎名町駅前から続く商店街にあるカフェ&旅館『シーナと一平』の一角を間借りし、今年4月からオープンした『長崎二丁目家庭科室』。まちの人が、手芸や編み物、料理など、自分の得意とすることをここで教え、だれもが立ち寄れて、気軽にいろいろなことを学べる場所だ。代表の藤岡聡子さんに、まちの中で開いた『家庭科室』への思いを聞いた。
年齢も職業も違う人たちから、多くのことを学んだ。
商店街に面した、開けられたままの引き戸。道行く人が中を覗いたり、顔見知りのスタッフたちと立ち話をしたり。ここ、東京都豊島区長崎2丁目にある『長崎二丁目家庭科室』は、手芸や編み物、料理など、この地域に住む人からそれぞれの得意なことを学べる場所。また、地元の作家が自作のアクセサリーを販売したり、アート展も開催する。地域で働く看護師さんが健康相談会も行う。
地域で暮らす、いろいろな世代がごく自然に集う場所をつくりたい。『家庭科室』のアイデアは、代表の藤岡聡子さんが自身の後悔や経験に正面から向き合ったからこそ、生まれた場所だ。
ソトコト(以下S) 『長崎二丁目家庭科室』は今年4月、カフェ&旅館『シーナと一平』のカフェスペースを間借りしてオープン。どんな経緯で始まった?
藤岡聡子(以下藤岡) 私、大学生のときに宮崎駿監督の映画『崖の上のポニョ』で、デイサービスと保育園が隣同士にあるのを観て、そういう場所をつくりたいと思ったんです。それで、2010年、東大阪市で全50床の住宅型有料老人ホームを友人と一緒に立ち上げました。私が24歳、友人が23歳でした。

S いきなりですね!
藤岡 友人が利用可能な建物を相続したということがあったからですが、なぜ老人ホームで、しかも『ポニョ』のような場所にしたいと思ったかは、小学6年生のときに亡くなった父と関係しています。父は医者で、社会的な活動も行う正義感の強い人だったのですが、私が小4のときに病気になり、2年間の闘病生活の末、亡くなりました。どんどんやせ細る父に対し、理解はできても、感情がついていかず、怖いと思ったり、父の最期にきちんと向き合えませんでした。その後、生前の父の活動を聞いたりして、もっと父のことをよく知っていたら、向き合い、死を受け入れられたかもしれないのに、という強烈な原体験があるんです。
S その後、藤岡さんは定時制の高校に通います。そこでの体験も強烈だった?
藤岡 父が亡くなり、私は中学生になっても勉強をせず、家出も繰り返す“ヤンキー”になって、定時制の夜間高校へ。高校時代は同級生も、ガソリンスタンドなどのバイト先でも、年齢が違う人が一緒にいるのが当たり前という環境になりました。母とは、中2から高2くらいまでの間、ほとんど会話がない状態だったのですが、毎朝、母がお弁当をつくってくれていました。それを知ったバイト先の40歳くらいの女性から、「その弁当、誰がつくってると思ってんねん。ありがとうって言えよ」って言われて。親や友人ではなく、斜め上くらいの第三者からの言葉がガツンと自分の中に入ってきて、私は、母との関係性を取り戻せました。私の人生をより深く開いてくれたのは、こうした人たち。社会のつながりの中でさまざまなことを学びました。

死を意識することで、今、生きていることも実感できるはず。
S そして大学へ進学し、卒業して1年間勤めたコンサル会社を辞めて始めた老人ホームでは、『ポニョ』に出てくるような理想の場所はできた?
藤岡 まずは入居者を集めないと立ち行かなくなるので、当初は営業に集中して1年半くらいで満床にしました。事業として軌道に乗り始めたので、新規事業として敷地の中に周辺地域の人たちも利用できるカフェをつくることにしました。私はその2階を学童保育的な場所にしようとしたんです。老人ホームのすぐ横に大きな小学校があったので、子どもたちの放課後の居場所をつくりたかった。ホームには保育園児が月に一度、歌を歌いに来てくれていたのですが、「ただいま」と、毎日来てくれる子どもがいたほうが、どんなにいいことか。介護や教育など、業界をまたいだところで、常識にとらわれない新しい価値を生む場所、世代をまたぐ新しい人の交流をつくりたいと思いました。

でも、そんなとき、当時、大阪と東京で遠距離恋愛をしていた彼氏との子どもを授かり、つわりがきつくて点滴を打たないと倒れてしまうほどひどい状態になったんです。しばらく実家で休養し、ようやく安定期に入ると、今度は母が末期がんであることがわかったんです。
S 父親にできなかったことができた?
藤岡 私の出産をはさみ、兄、姉、私の兄妹3人が交代で、24時間、病院の母に付き添い、最後の2か月間は病院から自宅に戻って、亡くなる前日まで家で過ごしました。亡くなったときは、私の息子が11か月、姉の娘が8か月。二人がハイハイする様子を、ベッドから眺めていた母の目は忘れられません。死に向かっていく人の横に、生きるエネルギーの塊のような子どもたちがいたことで、母は少なからず自分の生を最期までまっとうしてくれたかな、とは思います。今、5歳になる息子はときどき「おばあちゃん、どうしてるかな」と言います。0歳児でどこまで記憶があるのかわかりませんが、 “死”と切り離されなかった分、今もおばあちゃんを身近に感じているようです。
S そして今はご自身の会社『ReDo(リドゥ)』を設立し、『家庭科室』の運営などをしているわけですが?

藤岡 母の三回忌を15年3月に終え、同じ年の6月に2人目が生まれ、9月に2週間、デンマークに子連れ留学をした後、もう一度、踏み出さないといけないなと思ってその11月に設立しました。大好きな本『虫眼とアニ眼』(養老孟司・宮崎駿著)を読み返して、そこで描かれている「介護施設」のようなものをつくりたいと思ったんです。この本の中で宮崎さんは、町で一番いいところに幼稚園や保育園など子どもたちの場所、そしてその地続きでホスピスをつくろうと書いています。この本に描かれた子どもたちは、ホスピスのベッドに寝ているおじいちゃんに「まだ死なないの?」って言っている。不謹慎ですが、そのくらい死を近くに感じてほしいと私も思うのです。死を意識することで、今生きていることも実感できるはずです。

『家庭科室』の次は、美術室や、誰でも泊まれる宿を!
S 『家庭科室』の前身的なことで、「しいなまちの茶話会」もされていましたね。
藤岡 私は普段から人の生き様を見るのが好きで、町で出会ったおじいさん、おばあさんに、これまでどうやって生きてきたかという話をしてもらう会を、『シーナと一平』で、昨年7月から今年3月まで月1回のペースで開催していました。それが「しいなまちの茶話会」です。子育ての大先輩である海苔屋のお母さん、認知症にならないための活動をしている82歳のおじいさん、町の洋裁教室のお母さんなどを講師に招きました。みなさん、一生懸命話してくださり、涙が出るくらいうれしくて、こういう瞬間をもっと生み出したいと思うようになりました。『シーナと一平』の運営者にも同じ思いを持っていただき、『家庭科室』が生まれることになったのです。

S 『家庭科室』と名づけたのは?
藤岡 いわゆる「コミュニティカフェ」というボンヤリしたものでなく、来る人たちが目的を持つ場所にしたかった。とくに老年期の人に社会的役割を持ってもらいたいから、それぞれが得意なものを教えられる場所になればいいなと思っていました。ただ、「多世代が集うカフェ」ではわざとらしい。そんなときに中学・高校で家庭科を教えていた元・教員の深野佳奈子さんと出会ったのです。彼女も家庭科のおもしろさを伝える場所があればと考えていると知り、『家庭科室』を思いつきました。福祉も広い意味では、 “家庭科”といえると思います。

S たしかに「福祉」や「介護」のカフェだと入りにくいけど、『家庭科室』だったら入りやすいですね。
藤岡 次は『美術室』をつくりたいです。高齢者でも子どもでも、障がいがあっても、だれもがアートに触れられ、生み出せる場所。そこでは形を残せるし、生き様もひとつのアートとなります。あとは認知症や障がいがあっても気兼ねなく泊まれる宿もつくりたい。夜間は介護士がいて、家族も安心して一緒に泊まれる場所が、なにも山奥だけでなく、町の中、地域の中にあってもいい。あくまで普通の宿として。そして生涯をかけて、『虫眼とアニ眼』で描かれる、教育・福祉・介護をまたぎ、生と死が隣り合わせにあって、人の流れを新しくしていく生活環境をつくりたいと思っています。
S 介護というと、行政まかせになりやすいですが、そこで暮らす人みんなで考えていかないといけない問題ですね。
藤岡 高齢者介護の現場では、みんなで塗り絵をしたり、手をグーパーグーパーと、握って開く体操をしたりと、どこも画一的。認知症になった人に“脳トレ”をさせたりもしていますが、もしかすると、老いていく人に若返りたいという気持ちはないかもしれません。そういう人たちの生きてきた道、生き様を、私たち介護をする人間が尊重しないで、誰ができるの? って思ってしまいます。これから私たちが年を重ねていくなか、本当に今のままでいいのか、ちゃんと向き合わないといけないと思っています。