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サスティナビリティ

連載 | 森の生活からみる未来

小さいことは美しい

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「もっと大きく! もっとたくさん! もっと強く! もっと速く! もっと成長して! もっともっと……」

そうやって、日々追い立てられている人はどれくらいいるだろうか。

実は、ぼく自身が若い頃そうだった。幼少期からずっと、そういった社会の重圧を感じながら生きていた。社会人になると、そのプレッシャーはより強まっていくことになる……。

「この成長至上主義や、右肩上がりが前提の思考って、本当に正しいのだろうか」と違和感を感じながらも、それをうまく言葉にすることができなかった。そして、まだ何者でもなく、何も成し遂げていなかったこともあり、抵抗するもなかった。

小さい島国で資源も少ない。西洋諸国に比べると国力もない。技術も文化も、彼らより劣っていると思い込み、日本全体が「本来の自分たちのよさ」への自信を失ってしまったのはいつからなのだろうか。

もしかしたらそれは、江戸時代末期に黒船が来て、強制的に開国させられて押し付けられた劣等感が、始まりだったかもしれない。

日本とはまったく違う歴史と宗教を背負う異国の人が、ある日突然、圧倒的な武力を伴ってやってきて、「私たちのほうが進んでいます。あなたたちは遅れています」と言い切った。

しかも彼らの多くが、自分たちが一番優れていると本気で思い込み、それ以外の価値観を受け入れようとしなかった人たちだった。

当時の日本には、1000年以上かけて熟成されてきた、繊細で優美な文化があった。それは世界のどこを探してもなかったもの。さらに、「里山文化」という、欧米が真似できない、自然と共生するサスティナブルな暮らしもあった。その自然哲学や美意識はユニークで、世界のどこにも存在しないものだったのである。

一部のヨーロッパ人がそれに気づいてくれた。当時の日本の緻密さを極めたアートを輸出し、清貧で高貴でいようとする思想を言語化して、その価値を母国に伝えようとした。だがそれは決して、当時のメインストリームにはならなかったのである。

自分に自信を失うと、誰もがほかと比較することで、自身の価値を定義しようとする。そうなると、もう完全な負のスパイラルに陥ってしまう。「もともとそこにあったもの」の価値がわからなくなり、そして自分を見失い、意識が内ではなく、外へ向くようになってしまうのである。

その結果、他者を見て「ああなりたい」「あれが欲しい」と、永遠に満たされることのない欲望の無間地獄ちてしまうのだ。その昔、日本が武力戦争へ走り、それに負けた後、経済戦争へと暴走した背景には、こういったことがあったのは想像に難くない。

確かに国土は狭いかもしれない。だが日本には、熱帯の沖縄県の離島から、亜寒帯の北海道までという、壮大な気候区分が存在する。豊穣の海に囲まれ、鮮やかな四季があり、生物と植物の多様性は圧巻だ。

こういった狭い土地に凝縮された多彩な気候風土と豊かな自然形態が、日本が世界に誇る唯一無二の文化、食、美意識を生み出した。

ぼくが、ニュージーランドに暮らし、世界中を旅していると、日本が海外で尊敬されていることがわかる場面に頻繁に遭遇する。

それは日本が過去、侵略戦争で驚異的なほど国土を拡張させたことや、経済戦争に勝ち、GDP世界第2位にまでなったことに対してではない。多くの場合、繊細で清潔、礼儀正しい日本人の美意識、シンプルで精密な和食、ミニマムで禅的な日本人のクリエイティビティやデザインに対してである。

世界各地で今、「小さいこと、希少なこと、弱いこと、スローなこと、本来あるものを大切にすること」をよしとするムーブメントが起き始めている。それは、世の中をいい方向へ導く可能性があると、ぼくは信じている。

次号から、それぞれについて詳しく書いていきたいと思う。

千利休がデザインした、ミニマム美を極めた庭がある京都の大徳寺。
千利休がデザインした、ミニマム美を極めた庭がある京都の大徳寺。

 

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