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仕事・働き方

特集 | かっこいい農業 これからの日本らしい農業のあり方 !

『きとら農園』の価値あるぶどう山椒。

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「けっこう稼げるよ」。そう聞いてぶどう山椒栽培を始めた新田清信さん。けれども実際はそんなに甘くはなく、6次産業化に取り組むことに。栽培から加工、販売まで行う仕事から得られた農業のやりがいとは?

目次

戻る前から準備を整え、段階的に就農を果たす。益子の本質と概念が、建築に。生み出されたのは“考える道具”。

弘法大師・空海が開いた高野山の麓に位置する和歌山県・有田川町。標高約600メートルの山腹に『きとら農園』をつくり、ぶどう山椒を栽培しているのは、有田川町生まれの新田清信さんだ。山で栽培するのは、昼夜の寒暖差が大きく、おいしい実が生るからだ。「この地域には『空海伝説』が多く残っています。空海が開いたとされる“祈禱田”があり、それがなまってこのあたりは“きとら”と呼ばれているため、『きとら農園』と名づけました」と新田さんは話す。「平安時代には高野山に年貢として紀伊国(現在の和歌山県)の山椒が納められていたと文献にも残っているように、昔から山椒栽培が盛んだったようです」と、歴史好きな新田さんは山椒の歴史をひもとく。「江戸時代末期に、この地域のある家の庭でぶどうの房のように大粒の実をつける山椒が発見されました。それがぶどう山椒の始まりです」。ぶどう山椒発祥の地である有田川町は、全国の山椒の約8割を生産したこともあるほど山椒づくりが盛んな地域となった。

そんな有田川町のぶどう山椒農家に新田さんがなりたいと思ったのは、「儲かるって聞いたから」と、意外にも軽いノリだった。大学卒業後、陸上自衛隊に入隊するも、体を痛めてやむなく除隊した新田さんは、東京へ移って仕事をしているときに妻・文映さんと出会った。入籍し、和歌山県へ戻ることにした新田さんは、これから何の仕事をしようかと考えていたときに、親戚からぶどう山椒の栽培を勧められたのだ。「需要が増え、儲かる作物になってきたということで、地域の多くの農家が山椒栽培を行うようになっていました。それで、僕も儲けたいなと」。

ただ、ぶどう山椒は苗木を植えてから出荷できるまでに5年間はかかり、その間は無収入。それでは生活できないので、和歌山県へ戻る2、3年前から就農の準備を始めた。まず、山椒の耕作放棄地となっていた山を紹介してもらって購入し、開墾した。「年に4、5回帰省し、生い茂った木を伐採し、苗木を植えて。一から畑づくりを行いました」と振り返る。

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挽きたてのぶどう山椒はこんなにもきれいな緑色で、しかも香り高い。パウダー状になるまでていねいに石臼で挽く。
2011年、新田さんは29歳のときに和歌山県へ戻った。アパレル関連の仕事をしていた文映さんもまちで仕事を続けやすいようにと、有田川町よりも職場に近い海南市に家を借り、新田さんは農園まで車で1時間かけて通った。

就農するにあたって役場にも相談。新規就農者に5年間、年150万円を支援する青年就農給付金(現・農業次世代人材投資資金)の申請を行った。ぶどう山椒の栽培技術は親戚に教えてもらったり、農家から畑を借りて栽培したりしながら習得した。「ミカンや梅といった高い技術が必要な果樹に比べたら、ぶどう山椒の栽培は簡単です。初期投資もそれほど必要ありませんから、新規就農の敷居は割と低いと思います」と話す。
 新人農家として順調に歩みを進めていた新田さんだが、状況が一変した。「儲かる作物」だったぶどう山椒が、多くの農家が栽培を始めたために供給過多となり、値段が暴落したのだ。ただ、状況が一変したからこそ、そこから抜け出すために新田さんは知恵を絞った。

「元々、ぶどう山椒の値段設定には疑問を持っていました。夏に収穫した山椒を大手の取引先に出荷しても、値段を知らされるのは翌年3月。高ければまだしも、『だったら出荷しなかったのに』という値段のときも。年金暮らしの高齢者が小遣いを稼ぐために栽培しているのなら笑ってすませられるのかもしれませんが、僕はぶどう山椒で家族を養おうと決めた身ですから。出荷して半年経たないと値段がわからないようでは困るんです」

新田さんはそうした出荷をやめ、自ら加工と販売を行うことにした。

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農園にある桑の木にあっという間に登った新田さん。ハサミで枝を切り落とし、葉を収穫する。

知恵を出せば、可能性はもっと広がる。

ぶどう山椒の栽培と加工、そして販売。つまり6次産業化だ。例えば、5月。実ったばかりで種も軟らかい実山椒は、佃煮などそのまま料理に使えるが、収穫は2週間ほどに限られ、鮮度が命だ。新田さんは午前中に収穫し、昼一番に冷蔵便で発送。東京のミシュラン2つ星レストランや京都の3つ星料亭にも翌日に届くようにした。

7・8月になると山椒の実は熟し、種も硬くなる。収穫し、乾燥機で乾燥させ、種を採り、さらに石臼などを使ってていねいに挽き、パウダー状の粉山椒として一般客や飲食店、香辛料を扱う業者にも出荷している。さらに、実が生る前の花山椒や、枝で完熟した赤山椒も注文が入れば対応する。

加工や販売まで行う最大の理由は、「自分で値段を決めたいから」と新田さんは言う。「もちろん先方との交渉ですが、自分で栽培し、丹精込めて加工し、適正な値段で販売できれば、やりがいにもなり、うれしいですから」。

2018年にはフランスの商談会に粉山椒を出品した。「『ジャパニーズ・ペッパー』と呼ばれ、非常に好評でした。山椒をスイーツやチーズにも使うと知り、驚き、ヨーロッパではオーガニックかどうかも重要なので今、有機認証の取得に取り組んでいます」。

そんなふうにビジネスを意識した農業に取り組む新田さんでも、ぶどう山椒だけでは家族を養うための十分な収入は得られない。「農園のあるところは昔、桑畑だったらしく、桑の木が野生化して残っています。その葉を刈り取り、お茶をつくって販売しています。販売量も増えていますよ」と桑の木に登る新田さん。さらに冬の農閑期は、就農した頃に弟子入りした庭師の仕事も継続。ぶどう山椒と桑の葉茶と庭師の収入の割合は、5:3:2ぐらいだそうだ。

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農園に落ちていたというシカの角や頭骨を見せてくれる新田さん。獣害から山椒を守るために農園の周囲には柵を巡らせている。
出荷先や値段を自分で決め、やりたい仕事に挑戦し、家族と過ごす時間も大事にするというように、仕事と生活をデザインできることも農業のおもしろさだと新田さんは言う。

ただ、『きとら農園』の経営は軌道に乗りつつあるが、有田川町全体のぶどう山椒栽培は大きな課題を抱えている。「この地域のぶどう山椒農家の平均年齢は80歳。近い将来、その多くが辞められるでしょう。60代以上の農家がほとんどで、一気に下がって39歳の僕が最年少。若い人たちに関心を持ってもらうには、儲かる仕事にする必要があります。知恵を出せば、ぶどう山椒の可能性はもっと広がるはず。若い人たちに挑戦してほしいですね」と新田さんは笑顔で、そして、力強く語った。

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新田さんの妻・文映さんと娘たち。長女(左)が小学1年生になる2022年の春、海南市から有田川町の農園に近い新田さんの実家に引っ越す。
photographs by Hiroshi Takaoka  text by Kentaro Matsui
記事は雑誌ソトコト2022年1月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。

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