流れる川が地域とひとをつなぐ、「白川あかり茶の湯の会」。

流れる川が地域とひとをつなぐ、「白川あかり茶の湯の会」。

2021.12.10

ロームシアターや京セラ美術館のオープンを経て、カフェや新しいお店が並びここ数年の再開発ですっかり京都の新しい顔となった京都の岡崎地区。この地域を流れているのが琵琶湖からの疏水と、白川の流れ。明治の水道整備で造られた近代を象徴する水路と、昔ながらの小川の景色を思わせる白川の流れのコントラストが印象的です。

この白川の川べりで不定期で「白川あかり茶の湯の会」が開催されています。川面には『スペースデザインカレッジ京都校』の学生有志の設計による茶室が登場し、この数年でこの茶室造りが課題や授業にもなり高度なものが登場するようになってきています。

白川に浮かぶように出現する茶室。2014年には10か所もの趣向を凝らした茶席が登場した。

この一帯は平安時代、白河法皇ら歴代の「六勝寺」と呼ばれる6つの大寺院が王宮のように立ち並んでいた地域でした。白河法皇が比叡山の僧兵とサイコロの目とともに鴨川の水を「我が意にならぬもの」として嘆いた通り、中世の鴨川は氾濫を繰り返す厄介な川で、鴨川に流れ込む白川も豊臣秀吉の時代の治水事業を経てまた今の流域に落ち着いていったと考えられています。

そして人々と川の水との関わりを大きく変えたのが琵琶湖疎水の建設でした。水利を利用した友禅の染色工場、『日本冷蔵』(現・ニチレイ)の製氷工場や小麦の精麦工場など町工場が建てられるようになり、精麦場の敷地に引き込まれた水路には水車が稼働していました。江戸初期のこの地域を描いた絵図にもすでに私有地内への細かな水路網が描かれており、地域住民にとっても川の水が生活の一部だったことがわかります。こうした民間の水路はまだ調査が入ったことがなく、まだまだ未知の水路が張り巡らされているのではと考えられています。

京都の夏の風物詩である川床も江戸時代には川縁に下りて川面に足を浸すような形だったように、かつての川と暮らしの距離はもっと近いものでした。白川にも川を利用した地域のプールがあったり、友禅流しが行われたり、川縁に下りて水を利用する光景が日常にあったそうです。

この茶席も「白川子ども祭り」での川床からはじまりました。「白川あかり茶の湯の会」の川崎修良さんによると1970年代から川の清掃を趣旨に住民が結成した『クリーン白川の会』によって開催されてきた金魚の放流や川遊びの夏祭りが、2010年に住民有志によって復活したことがきっかけだったそう。学生が祭りを手伝いうところから始まり、地域と学生の協働にさまざまな模索が行われる中で、現在の取り組みに展開していきました。

過去には、小麦の精麦場の旧・山中精麦場にあった水車を、映像で再現したこともあった。

各大学の茶道部も参加して「茶の湯のまちづくり」とプロジェクトを位置づけ、2014年には白川のさまざまなポイントに茶室を設置して市中のユニークな茶人たちの主催する茶席を何か所もつないでいくものとなりました。この期間、川の上にはその時だけの一時的な茶席が出現します。流れるということ、移ろってゆくということ。時代時代に水によって姿を変えてきたこの美しい町並みもまた移ろいやすい風景なのではないだろうか、といった感慨がもたげてきます。

「一時的なものだけど心に残る。消えてしまうものだけが思い出に残るのではないでしょうか」という川崎さん。今当たり前にあると思っている景観も同様に消えてしまうものであり、地域の努力によって維持されているものであるという当たり前のことを改めて考えさせられるのでした。

text by Kenichiro Hoshi

記事は雑誌ソトコト2022年1月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。