1964年に東京オリンピックがあり、そのあと1970年に大阪万博(EXPO70)が開催された。1960年代後半、世相は、安保闘争や学生紛争が起こり、御茶ノ水や神田駿河台の学生街には、トロ文字の立て看板が立ち並んでいた。東京の空には、いつもヘリコプターが飛び回って騒然としていた。だが、10歳の少年にとっては、上の世代が何にそれほど怒っているのか理解できなかった。むしろ、新幹線が開通し、アポロが月に行き、未来都市が具現化されたEXPO70に限りない明るい希望を感じた。
私は親にせがんで東京から出かけて行き、春と夏、2回も大阪のEXPO70会場に行った。最寄りの駅(たぶん茨木だったと思う)からバスに詰め込まれ、千里丘陵の竹林を抜けていくと、向こうの方にスタイリッシュな建物や尖塔、ドーム群などのスカイラインがまるで蜃気楼のように浮かび上がってきた。興奮は極点に高まった。
広大な会場内はものすごい人出で、どのパビリオンも長蛇の列。到底見たいものは見きれなかった。最近、この思い出を知人に話したら、「それは福岡さんがボンボンだったということですよ。2回も連れて行ってもらえるなんてすごく贅沢なんです。漫画『20世紀少年』を見てごらんなさい。行きたくても行けなかった少年が、行ったと嘘をつくんです」と言われてしまった。わたしの家は別にお金持ちではなかったのだが。
EXPO70の一番人気はアメリカ館だった。それは今の東京ドームを先取りしたような、白い空気膜構造で覆われた楕円形の巨大な建築だった。内部に柱はなく、当時の宇宙工学の粋を結集して設計されたものだった。ガラス繊維とワイアロープだけで屋根を支え、内部からの空気圧で膨張されていて、たとえ大量の降雪があっても支えられるとされていた(万博の会期は春から秋だったので、その心配は杞憂だった)。アメリカ館の目玉展示は、その前年、アポロ12号が月面から持ち帰ってきた「月の石」だった。それは褐色の溶岩のような鉱物で、支持台のガラスケースの中に燦然と輝いていた。人類が地球以外の天体から持ち帰った貴重なサンプル。私の夢想は宇宙の彼方に広がっていった。
人類の進歩と調和を約束する明るい近未来を象徴するパビリオンが居並ぶEXPO70の会場のど真ん中に、岡本太郎は太陽の塔をつくった。それは子ども心にも不気味に映った。頂上には無機的な黄金の仮面。胴体の中央には歪んだ顔と赤い炎。背面には黒い太陽。そして地下にも包帯を巻いたミイラのような地底の顔があった。それは呪術的で、まるで未来とは逆行していた。
あとになって知ったことだが、これは岡本太郎独特の、EXPO70への辛辣な批評だった。「人類の進歩と調和」が万博の統一テーマだったが、彼はこれを聞いて「人類は進歩も調和もしていない」と言ったそうだ。現代人にラスコー洞窟の壁画や縄文土器のような躍動感あふれるものがつくれるか? 調和どころか、足の引っ張り合いばかりしてるじゃないか、と。
その思いをそのまま具現化してしまうところが、岡本太郎のパワーのすごさである。現に太陽の塔は、丹下健三設計の大屋根に丸く刳り抜いた穴を突き破るようにして、屹立していた。
一方、岡本太郎は太陽の塔の内部に、もうひとつの塔を造っていた。“生命の樹”である。生命の樹には、38億年の生命進化の流れが貼り付けられていた。私も内部を見学したが、おぼろげながらその様子を覚えている。今思うと、ややちゃちな模型の三葉虫やアンモナイトが貼り付けられていた。一部は動くようになっていたと記憶している。岡本太郎は、現代に対するアンチテーゼを主張する一方で、悠久の生命の時間を考えていたのだ。
ひるがえって、2025年の大阪関西万博のテーマは「いのち」である。「いのち輝く未来社会」のデザイン。
なお出口の見えないコロナ禍の真っただ中にいる今、政治、経済、社会、あるいは科学をめぐる言説は日々飛び交う。しかしそのほとんどが、どこか空疎に響くのはなぜだろうか。それはいずれも表層的で、そこからすっぽり抜け落ちているものがあるからではないか。何が抜け落ちているのか。それは、いちばんの根幹となるはずの「いのち」と向き合うための基本的な態度、すなわち「生命哲学」だと思う。
2025年、大阪関西万博のテーマ事業のプロデューサーとなった私は、そのことを考えている。それを明示することが、岡本太郎のテーマ館だった太陽の塔へのオマージュであり、彼の哲学の継承にもなるはずだ。確かに人類は進歩も調和もしていない。むしろ停滞と分断の中にある。
何よりも「いのち」が大切なことは自明だが、ではなぜ生命に価値があるのか、今一度、きちんとした言葉で確認しておきたい。次号以降も考察を続けよう。
待望の新刊!『生命海流 GALAPAGOS』
本体2090円(税込)
文・福岡伸一