仕事で海外に行く機会は多いが、日本円が現地で使えることはほとんどない。現地通貨に両替しない限り、手持ちの日本円にも無力感が漂う。日本を飛び立つまでは万能だった我が現金が、数時間の移動で異国の地に立った瞬間から威勢が弱まる。無論、価値を失ったわけではない。両替すればよいだけの話だ。しかし、財布の中の現金のままでは、空港から市内へのタクシーに乗ることや1本の水を買うことすらままならない。その度に「お金って何なのだろう」という原理原則に立ち返り、必要な物やサービスと交換できなければ単なる紙切れにすぎないことを思い知る。
「事実でないことを、仮にそう考えること」を意味する“仮想”が接合しているため、怪しげなイメージが漂う仮想通貨。取引所が破綻しコインが消失した事件で知れ渡ったビットコイン。流通量が多いこともあり、数多の仮想通貨の中でも注目度が高い。2016年のオリンピックを間近に控えたブラジルで、1日あたりのビットコイン取引量が“現実”として扱われる金の取引量を上回る出来事があった。怪しいもの扱いされようが疎まれようが、着実に勢力を伸ばしていることが生命力の証しである。
おぼろげな姿で世の中に現れた当初から「仮想通貨は徒花ではない」と主張し続けている理由は、仮想通貨を支えるブロックチェーン技術の秀逸さにある。ブロックチェーンは分散して存在し、ユーザー同士が管理し合う民主的なシステムだ。一元管理しないため、特定の管理者によって独裁的なコントロールをされることがない。巨大サーバーも不要で、低コストで成り立つ。管理者が不在でも、取引記録を改竄されにくい形で処理や保管ができ、各種契約にも活用する余地がある。この技術を背景としている仮想通貨は、非現実な通貨と見なすより、現実の通貨がデジタル化しただけととらえるべきである。とはいえ、まだ完全無欠の技術ではない。生命力が嘘ものではなければ多くの技術的進化を遂げ、“仮想”を外せる日がやってくる。社会にとっての必然性が生命力の源だ。
現金は信頼や信用の代替手段であり、物質的価値があるわけではない。その観点では、現金だって、実は“仮想”なのである。意図してか結果論かはともかく、人間は通貨のデジタル化を図り、「新たなる経済の仕組み」に移行しようしている。それはなぜかといえば、よりよい仕組みを欲する本能がうずいているからだ。
新たなる経済の要諦になると考えているのが「直接性」である。現在は、お金の管理や取引に中央銀行や金融機関が介在している。ブロックチェーン技術が進歩すると、多くの直接取引が可能となり、仲介者に求めるクオリティがシビアになる。安全性、利便性、サービスに対する対価を仲介者に対して支払っているわけだが、相当の付加価値を提供しなければ、仲介者を不要とする力学に勝てなくなる。相互扶助に介在している保険会社のような事業体も影響を受けることになる。
人類の誕生以来存在する相互扶助は、社会の構成員同士が互いに助け合うことであるから、元来が人と人の直接的な営みである。相互扶助を直接行うための優れた仕組みを開発し、仲介を要するシステムを凌駕できた暁には、多くの相互扶助が直接的なものに回帰する。相互扶助に介在する者への報酬原資は社会の構成員が負担している以上、それを不要にする燃料に一度火が点くと簡単には消えない。個人や企業が応援的な資金を直接調達できる方法も多様化する。応援する対象にデジタル通貨を提供し、対価として何らかの価値を還元する。これも相互扶助の未来像である。お金そのものに価値があるわけでないことを再認識し、より民主的な相互扶助の仕組みへと移行する。そのプロセスの中で、“仮想通貨狂想曲”が鳴り響いている。