いろは

連載 | こといづ | 66 いろは

 ぐあぁぁぁ、ぐおろっ、ぐるっがぎゃあぁぁ。あちらでカラスが鳴いているので、鳴き声を真似てみる。そっくりそのまま真似ようとすると、これがなかなか難しい。口の開け方、喉の締め方、息を当てる場所。まるで出鱈目に、馬鹿になって、ただただカラスのまんまになろうと集中していると、あぎゃあぁぁぁ、躰の奥底からカラスの鳴き声が飛び出した。自分からこんな音が出てくるとは思ってもみなかった。まあ、こんなことをしても何の意味もないだろうけれど、楽しい。猫がニャニャ、ひぐらしがテレヒヒヒトトリリリリ、なんでもかんでも、こちらにやってきた音を真似してそのまま返してみる。ほんとうに馬鹿になるしかない。声の出し方も今まで試したことのないような、これはちょっと無理やろうなというところで怖がらずに音を出してみる。最近は、こんなことが一番楽しい。


 3月にソロモン諸島から帰ってからというもの、頭の片隅で常に何か「あたらしい音」というのを自分なりに探しているような気がする。あたらしいといっても人類が聞いたこともないような音みたいに大げさなものではなくて、今まであまり注意を払ってこなかった音を、もっとちゃんと聴いてみたくなった。暮らしのなかで真剣に耳を澄ましてみると、まず空気の音が面白い。場所ごとに空気の音が違うし、座ったり立ったりしても細かく違う。好きな空気の音がするところは居心地がいい。目を瞑って耳を頼りにすれば、いま居る場所がどんな空間なのか、どんなものに囲まれているのか、何かがあるとして、どれくらい離れているのか、たくさん伝わってくる。目で見ていたのとはまったく違う、もう一つの世界が頭の中に浮かんでくる。そして耳は、家の壁を通り越えて、外で歌っている虫や鳥や、さらに山の中にまで耳をやっていくと、生きものたちがどんな具合にそこここで暮らしているのか、なんとなく伝わってくる気がしてくる。


さとうみかを


 そういう耳で日々を過ごしていると、耳の側をかすめ飛んでいったカナブンの羽音や、風が頭上を通り過ぎる音がおもしろく意味のあるものに感じてくる。人が喋っている言葉ですら、意味を追うのをやめて、音の上がり下がりや、かすれたり、詰まったり、そんな部分に注目して聴いてみると、息に混じって滲み出てくる、なんとも命の精とでも呼びたくなるような、その人それぞれの息に乗っかった声という音そのものが、ほかにはないもので、儚く、心を奪われる。歌や演奏を聴くように、大事なものを受け取るように、周りで鳴っているすべての音に耳を凝らしてみると、どれもこれも、音というのは何かから何かへのメッセージなのかもしれない、だとすると何を届け合っているのだろうか。耳を澄ましていると、どこか遠く、生まれる前の記憶のような、死んでいく先のような、そういうものと繋がっている気もしてくる。そんなおもしろい音たちを自分なりに真似てみると、聴いているだけより、さらにもっとおもしろい。人の躰には血管や神経が河のように流れているけれど、新しい躰の使い方を試みるということは、自分の躰に新しい流れを、新しい道をつくるようなものだ。そんな新しい道に新鮮な風が通り出したら、やっぱり今まで気づいていなかったものにまで気づけるようになると思う。簡単にいうと、鳥や植物や空や海や、そういう人間でないものときちんと話がしたくなったのかもしれない。ピアノを弾いていても、耳は山の中に置いて、ピアノの音が少しでも彼らにとっておもしろいものであったらいいなと、怖がらずにまだ試していない音を出してみて、山の中の耳で彼らと一緒に聴いてみる。



つきてみよ ひふみよいむなや ここのとを とをとおさめて またはじまるを


(突きてみよ 一二三四五六七八九十 十と納めて また始まるを)



 と、良寛がうたったように、何事も突き進めていくと、ちょっと詰まってしまうこともあると思う。これ以上ないくらい、あることに懸命になったのだから、さらにその先、その先へと思い入れすぎるのは、ちょっとしんどいことだと思うようになった。十まで辿り着いたら、また一から始まる。何事もそういうものだと、ただそれだけのことと知っているだけで気持ちが楽になった。もうすぐ38歳になるけれど、新しい試みを自分なりに始めてみたくなったのだと思う。一から始まるのだから、よちよち歩きだけれど。 

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