ソロモン諸島から帰ってきてからも、心地よい、たぷんたぷんとした海の余韻が躰に残っている。消えてしまうのがもったいなくて、なんとかこのままの感覚を保ったまま日々を過ごせないものかと思っているけれど、こんなことをきちんと感じた旅ははじめてかもしれない。
どこまでも透明なとびきりの海。陸からでも海の中の様子がありありと眺められる。これが海なんだ。シュノーケルをつけてぷかぷか浮かびながら海の中を覗いていると、想像したこともないようなカラフルな魚の群れが目の前にぱっと広がって、くらっとする。太陽の光が幾千の筋になって降り注ぐ中を煌めきながら泳いでいく妻のすぐ側に小さなサメがやってきた。「儂なんか40匹くらいに囲まれたことがあるけど、大丈夫やったから大丈夫やろう」と、この宿泊所のオーナーも言っていたので慌てないでサメが過ぎ去っていくのを見届ける。この辺りに危険なものはないと知らされていても、人間が生きていける陸とは世界が違いすぎる。足が底につかない所を泳ぐのは、死を連想してしまって怖い。ふっと水の色が深い青に変わる。そこに、ずどん、ずどんと、まるで脳みそや腸のような形をした巨大なサンゴたち。なんでこんな形と色なんだろうと、そのグロテスクな美しい姿にドキドキしながら、足を乗せた瞬間に食べられてしまわないだろうか、おかしなくらい黄色くて巨大な丸い生き物の上に足を置く。わっと水面に上がると、海の中とは全く違う、馴染みの世界、空や鳥や木々があった。
ぽつり浮かぶ小さな島は、ぐるり歩き回っても5分もかからない。島には、ヤシの木などの植物が育っているほかは、僕たちが宿泊するコテージと、オーナーのギリたちが暮らす一軒家があるだけだ。海の向こうに見える本島にかろうじて小さな町の気配が見えるが、たどり着くのにモーターボートで15分はかかる。もちろん、水道も電気も通っていない。雨水を貯め、電気はガソリンで発電するので、どちらも最低限しか使わないように節約する。トイレは肥料にして循環させる。遠い遠い国の小さな小さな島までやってきて、閉じ込められた空間。何もすることがないと思いきや、きらきらした波紋や色づく大空や、海の中を覗いているだけで幸せだった。外の観察が終わって、コテージに戻ってくると、今度は「やることが特にないこと」に身を委ねた。自宅にいると、人との繋がりも仕事も水も電気もないなんて、おそらく心配になるけれど、束の間の旅先だけでも自分に空白が訪れたことが嬉しかった。自分の中に大きな空間ができた分、子どもの頃の感性や妄想の力が蘇ってくる。コテージは海の上に建てられていて、床板の隙間を覗くと魚が泳いでいる。今夜は海の上で眠れるのだ。ちゃぽん、ちゃぽん、子守唄のように柔らかな波の音に包まれて、大きなお母さんに抱かれているような安心があった。月明かりに照らされながら、静まり返った海と一緒に眠っていると、頭の中でドンドンドンドンという重低音が鳴り響きだした。ドゥドゥドゥという低いベースのような音も鳴っている。まいったな、ギリたちが宴会をはじめたのかな。いや、窓の外を見ても気配はなく、周りには黒い海しかない。ちらりと妻を見ると、暑くて寝苦しそうにしている。おかしいな、幻聴かな、こんな穏やかな夜なのに嫌だなあと、外に出てみると、海の向こうの町がなんだか明るい。目を凝らしてみても、ただ街灯がついているだけなのか、音楽イベントが行われているのか、小さくてさっぱりわからない。そのうちに妻が起きてきたので、「なあ、ずっと重低音が鳴ってる気がするんやけど、聞こえる?」「ほんまや、確かに聞こえる。町のほうから?」。まさか、はるか向こうの島から海を越えて、こんな所まで音が届いてくるなんて。眠ろうとしている躰のリズムよりずいぶん速いテンポで単調な規則正しい重低音が繰り返される。人間でさえ眠れないのに、海や生き物はたまらないだろうな。でも、郷に入ったら郷に従え。きっと、あそこでは大勢の人が楽しんでいるんやろうな。諦めて、そのままテラスのハンモックでゆらゆらしながら、町の音と海の音に耳を澄ませる。さっきまでの不快感は消えて、海のリズムに集中していた。海や島や空や、生き物たちのリズムがある。大きくて、大きくて、穏やかだ。
次の日、ギリに別れを告げて、さらに町から離れたところにある別の宿泊所に向かった。今度もまた、2軒の家があるだけの小さな島だった。慣れない海で遊びすぎて疲れが出たのか、急に熱が出てお腹が痛くなった。一日中、何も食べずに寝ていることにした。南国の生暖かい空気と躰から湧き上がる熱が重なり合って、ぼうっとふらふらする。何度も排泄を繰り返して、頭の中も躰の中もすっかり空っぽになっていった。絶え間なく打ち寄せる波が、たぷんたぷん、床の下で躍っている。ちらり居間を見てみると、妻が一人で黙々と絵を描いている。ゆらゆらと外に出てみると、向こうの島にヤシの木がたくさん風と揺れている。遠くの島には薄黒い気配がすり寄っていて、きっとあれが雨だ、雨が降っているのだろう。遠くから見ると雨はこういう姿をしているのか、あやふやな巨きな生き物のようだ。海を覗くと、きらきらと太陽が反射して水面にさまざまな模様が描かれていく。小さく見ると細やかな図形のようで、大きく見ると螺旋を描いているようだ。輝く海の上をすうっとボートが横切っていく。空を飛んでいるみたい。鳥が幾重にも歌って、ヤシの実が落ちた。カサカサッとヤドカリが海から上がって、ぴしゃっと魚が跳ねた。たぷんたぷん、波が寄せては返し。パサパサパサパサ、枯れた葉で造られた屋根で雨が遊びはじめた。サメが旋回している。向こうの島のヤシの木がじっとしている。ふと、「全体性」という言葉が頭をよぎった。どういう意味なのか何のことかよくわからないけれど、「全体性ってこういうことか」と脳天を貫かれた。充たされた世界の中にいる。すべて揃っている。感じ取れていなかった細やかな動きや形や色や音で充ちあふれている。言葉にすると、ただそれだけのことで、なんでもないけれど、とてつもなく大きな体験だった。きっと、ただ観察して、他者の目を捨てて、自分なりに観察して、何かを見て感じたことを形にしたい残したいというよりは、もう目の前にこんなに美しい動きや色にあふれているのだから、残したいと思う前に一緒に踊りたい。風が吹いて葉が揺れるように、自分もただ揺れたい。少しずつ、一歩ずつでいいから、そんなピアノが弾けるようになれたらな。たぷんたぷ
ん、一緒に揺れる感じがよいな。消えてほしくないな。