少し前のこと、ロンドンの大英博物館を訪問した。目的は、日本が生んだ博物学の鬼才・南方熊楠の足跡をたどることである。まさに明治の文明開化が幕開けようとする直前の1867年、南方熊楠は和歌山県に生を享けた。幼年期から『本草網目』、『大和本草』、『諸国名所』『和漢三才図会絵図』などの、今で言うところの絵解き図鑑に興味を持ち、さかんに書写して項目を暗記するのを好んだ。このあたりは、葛飾北斎の述懐、「己六才より物の形状を写の癖ありて」を彷彿させるところがある。
熊楠の少年時代の学校成績は平凡なものだったが、持ち前の向学心と家庭の応援もあって、青年期になると上京、神田の共立学校を経て、大学予備門に入った。共立学校は現在の開成高校の前身、大学予備門は現在の東京大学の前身なので、学歴的に見るとピカピカの“開成ー東大くん”なのだが、当時の状況は今とはだいぶん異なっていた。共立学校は予備校的な存在、大学予備門も、まだ帝国大学制が発足する以前の準備機関で、いわば大学進学のための教養課程的なものだった。入学の競争も激しくなかった。
せっかく入学した予備門だったが、熊楠は早々に、東京での勉学生活に見切りをつけ、海外に活路を見つけるべく、1886年暮れ、19歳のとき渡米することになる。しかし確たる目標や、しかるべき留学先があったわけではない。サンフランシスコ、ミシガン州、フロリダ州など各地を転々とし、見聞を広めたものの、どこかに落ち着くことはなかった。この頃の様子は後に尾ひれがついて語られることになり、熊楠の豪傑伝説をかたちづくることになる。
1892年夏、熊楠は米国から大西洋を渡って英国に到着、ロンドンで学究生活を送ることになる。彼の学問のスタイルは徹底した自学方式。大学や研究機関といった組織に所属することなく(おそらく所属しようにも、伝も学歴もなかった)、ずっと在野の立場を貫き、もっぱら大英博物館の図書館に通って、書物を渉猟し、思考を深めた。私は、今も続く英国の博物学者たちのアカデミー組織、リンネ協会を訪問して、その勉強会のゲストとして熊楠が参加していないかどうか、調べてみることにした。
リンネ協会は、チャールズ・ダーウィンが彼の進化論のアイデアを初めて発表した場所としても有名である(1858年7月1日のこと。ダーウィンとアルフレッド・ラッセル・ウォレスの論考を同僚が代読した)。リンネ協会には発足以来、詳細な記録が残されており、月1回程度の頻度で開かれていた勉強会の参加者(リンネ協会の正会員)の氏名、そして会員の紹介を受けたゲストの名前が記されていた。私は、熊楠がロンドンに滞在していた1892年からロンドンを去った1900年までの記録を丹念に調べてみたが、そこに熊楠の名を発見することはできなかった。やはり熊楠は、学会や研究サークルとは距離を置いて、孤独な研究生活を送っていたようだ(しかし夜になると、しばしば当時、ロンドンに滞在していた日本人商社マンなどとパブに繰り出し、大酒を飲み明かしていたのも事実である)。
この間、自由奔放な生活を送る熊楠に対して、経済的な支援をし続けのは、郷里・和歌山に醸造業を創立した父や弟であった。この頃から熊楠は『ネイチャー』や『ノーツ・アンド・クエリーズ』などの科学専門誌に英文で研究論文を投稿するようになる。研究論文とは言っても、ここでも熊楠のスタイルは独特だった。実験や自然観察に基づくデータを提出するのではなく、和漢欧米の論文・書籍から得た知見を比較文化論的に論述する、というのが彼の方法だった。だから内容はおのずと文化人類学的、民俗学的なものとなった。指紋の研究史、星座をめぐる論考、あるいは古来、燕が巣に隠し持つとされた石(実は、これは海洋生物の化石であった)などについての文献探査を、見事な英文で綴った。おそらく熊楠は、長年の英文熟読の成果として、会話としての英語よりも、読み書きとしての英語のほうがずいぶんと達者であったに違いない。
そんな在りし日の熊楠の暮らしぶりを偲ぶことができるような資料類が、大英博物館の図書館(現在は大英図書館に組織統一されている)に、今もなおちゃんと保管されていた。熊楠の入館申請書、手紙類、熊楠が館に寄贈した日本の書籍類などである。(つづく)
『ダーウィンの「種の起源」 はじめての進化論』
なぜ生きものは環境に合わせて、さまざまな見かけや性質を身につけるのか。あるものは絶滅し、あるものは生きのこるのはなぜか──。生命の「なぜ」を説明した、ダーウィンの『種の起源』。世界を変えた名著を、美しい絵と文章でわかりやすく語りなおした、すべての人のための科学絵本。