このほど私は、『大阪・関西万博2025(EXPO 2025)』のプロデューサーの一人に選出された。2025年に、大阪・夢洲地区に招致されることが決定した国際万国博覧会のテーマ館パビリオンの企画・立案をするという役割だ。
そもそも私は、プロデューサーのような役割がからきし苦手である。多数の人を束ねて、ものごとを立案したり、利害を調整したり、異なる意見を集約したりといった、リーダーシップを発揮する立場というのがまったく不得意だからである。むしろ子ども時代は、ひとりで虫を追っていたオタクタイプの少年だったし、分子生物学の研究者になったのも、研究が個人的な興味や関心の追究だったからである。確かに最初のうちはそれでよかった。しかし現代の科学研究は、進めば進むほど装置やテクノロジーが大規模になり、その分、大掛かりなプロジェクトにならざるを得なくなる。つまりチームワークや共同研究が増える。すると、自ずと研究は個人的な営みというよりは、企業のような組織運営型になる。そして研究者はキャリアを積んで、昇進するにつれ、プロデューサーとしての役割を果たさねばならなくなる。教授は、学生、院生、ポスドクたちを叱咤激励し、アメとムチを使い分け、時にはプレッシャーをかけねばならない。研究予算を獲得するため、自らのプレゼンスやブランド性を演出し、さまざま駆け引きを行い、時には政治的に動かねばならない。
こういうことが私には向いていなかった。だんだん重荷になってきた。配下の人たちにプレッシャーをかけるということは、自らもその反作用としてのプレッシャーを引き受けるということである。私にはそれが苦しく感じられたのだ。
それゆえ、私はそこから逃げることにした。主宰していた研究室をたたみ、学生や研究室員の行く先を整え、自分は“文転”した。文転というのは、理系に入ったものの、進路に悩んで文系に転じることを指す学生用語なのだが、教授が自ら“文転”してしまった。理工学部から総合文化政策学部というところに移籍した。
前代未聞のことだったので、関係各所に多大な迷惑をかけた。それでも私は、組織運営ではなく、個人的な営みとして研究を行いたかった。文系の学部に転じて、生命を哲学的に、あるいは理論的に考察していく道を選んだ。これが正しい選択だったかどうかは今もわからない。中途半端な作家業のような者になってしまったから、単に実験科学の道に挫折しただけともいえる。ただ、私はそこに学問の自由を求めた。
そんな私が、なぜ、今、またプロデューサーのような役職を引き受けたのか。ひとつには、EXPO2025の基本テーマが「いのち」だったからである。正式には「いのち輝く未来社会のデザイン」がスローガンで、いのちをいろいろな側面から考える、というのがテーマ館パビリオンの役割。私は「いのちを知る」担当プロデューサーである。
私たちの世代は、1970年に同じ大阪の地で開催された“EXPO70”に大きな影響を受けた世代である。なので恩返しの意義も感じたのだ。
当時、私は10歳。大阪・千里丘陵を切り開いて造られたEXPO70の会場に目を見張った。屹立する太陽の塔、白い空気ドームで覆われたアメリカ館、高く聳えるソビエト館。アメリカ館には、アポロ宇宙船と宇宙飛行士が持ち帰った「月の石」が展示されていた。そこには限りない未来への希望があった。
以来50年余り。現在の私たちは、EXPO70が約束したはずの「人類の進歩と調和」の中にはいない。繰り返し大災害に苛まれ、経済は停滞し、日本の人口は少子高齢化が進み、世界は分断され続けている。そのうえ、出口が見えないコロナ禍の真っ只中にある。
ポストコロナの新しい時代を迎えているはずの2025年、「いのちを知る」ことの意味を、生物学の立場から考えてほしいとの要請をいただき、引き受けることにした。いのちの何を知るべきなのか。私たちは現時点から未来を見がちだが、本来は、もっと引いた視点から、地球史や進化史をたどりながら、未来を見据えるべきだと思う。この問題について次号以降、考えてみたい。
そもそも私は、プロデューサーのような役割がからきし苦手である。多数の人を束ねて、ものごとを立案したり、利害を調整したり、異なる意見を集約したりといった、リーダーシップを発揮する立場というのがまったく不得意だからである。むしろ子ども時代は、ひとりで虫を追っていたオタクタイプの少年だったし、分子生物学の研究者になったのも、研究が個人的な興味や関心の追究だったからである。確かに最初のうちはそれでよかった。しかし現代の科学研究は、進めば進むほど装置やテクノロジーが大規模になり、その分、大掛かりなプロジェクトにならざるを得なくなる。つまりチームワークや共同研究が増える。すると、自ずと研究は個人的な営みというよりは、企業のような組織運営型になる。そして研究者はキャリアを積んで、昇進するにつれ、プロデューサーとしての役割を果たさねばならなくなる。教授は、学生、院生、ポスドクたちを叱咤激励し、アメとムチを使い分け、時にはプレッシャーをかけねばならない。研究予算を獲得するため、自らのプレゼンスやブランド性を演出し、さまざま駆け引きを行い、時には政治的に動かねばならない。
こういうことが私には向いていなかった。だんだん重荷になってきた。配下の人たちにプレッシャーをかけるということは、自らもその反作用としてのプレッシャーを引き受けるということである。私にはそれが苦しく感じられたのだ。
それゆえ、私はそこから逃げることにした。主宰していた研究室をたたみ、学生や研究室員の行く先を整え、自分は“文転”した。文転というのは、理系に入ったものの、進路に悩んで文系に転じることを指す学生用語なのだが、教授が自ら“文転”してしまった。理工学部から総合文化政策学部というところに移籍した。
前代未聞のことだったので、関係各所に多大な迷惑をかけた。それでも私は、組織運営ではなく、個人的な営みとして研究を行いたかった。文系の学部に転じて、生命を哲学的に、あるいは理論的に考察していく道を選んだ。これが正しい選択だったかどうかは今もわからない。中途半端な作家業のような者になってしまったから、単に実験科学の道に挫折しただけともいえる。ただ、私はそこに学問の自由を求めた。
そんな私が、なぜ、今、またプロデューサーのような役職を引き受けたのか。ひとつには、EXPO2025の基本テーマが「いのち」だったからである。正式には「いのち輝く未来社会のデザイン」がスローガンで、いのちをいろいろな側面から考える、というのがテーマ館パビリオンの役割。私は「いのちを知る」担当プロデューサーである。
私たちの世代は、1970年に同じ大阪の地で開催された“EXPO70”に大きな影響を受けた世代である。なので恩返しの意義も感じたのだ。
当時、私は10歳。大阪・千里丘陵を切り開いて造られたEXPO70の会場に目を見張った。屹立する太陽の塔、白い空気ドームで覆われたアメリカ館、高く聳えるソビエト館。アメリカ館には、アポロ宇宙船と宇宙飛行士が持ち帰った「月の石」が展示されていた。そこには限りない未来への希望があった。
以来50年余り。現在の私たちは、EXPO70が約束したはずの「人類の進歩と調和」の中にはいない。繰り返し大災害に苛まれ、経済は停滞し、日本の人口は少子高齢化が進み、世界は分断され続けている。そのうえ、出口が見えないコロナ禍の真っ只中にある。
ポストコロナの新しい時代を迎えているはずの2025年、「いのちを知る」ことの意味を、生物学の立場から考えてほしいとの要請をいただき、引き受けることにした。いのちの何を知るべきなのか。私たちは現時点から未来を見がちだが、本来は、もっと引いた視点から、地球史や進化史をたどりながら、未来を見据えるべきだと思う。この問題について次号以降、考えてみたい。
待望の新刊!『迷走生活の方法』
迷走生活とは右往左往することではなく、迷走(副交感)神経優位の生活を心がけ、ストレスを笑いに替え、免疫系を活性化し、コロナを遠ざける“let it be”な生き方をすること。帯には小泉今日子さんからの推薦文も。同時に前作『ツチハンミョウのギャンブル』も文春文庫化。いずれも軽妙な科学エッセイ。
福岡伸一著、文藝春秋刊 本体1,980円(税込)
福岡伸一著、文藝春秋刊 本体1,980円(税込)
collage by Koji Takeshima
文・福岡伸一
文・福岡伸一
ふくおか・しんいち●生物学者。1959年東京生まれ。京都大学卒。米国ハーバード大学医学部博士研究員、京都大学助教授などを経て、青山学院大学教授。米国ロックフェラー大学客員研究者。サントリー学芸賞を受賞し、ベストセラーとなった『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)、『動的平衡』(木楽舎)ほか、「生命とは何か」をわかりやすく解説した著書多数。ほかに『福岡伸一、西田哲学を読む』(小学館)、『ナチュラリスト』(新潮社)など。大のフェルメールファンとしても知られ『フェルメール 光の王国』『フェルメール 隠された次元』(木楽舎)がある。朝日新聞に小説「新ドリトル先生物語 ドリトル先生ガラパゴスを救う」を連載中。
記事は雑誌ソトコト2021年9月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。