蛇口をひねれば、ごく普通に出てくる“水”。コンビニや自動販売機ではすぐにペットボトルの水を買えるし、飲食店に行けば何も注文しなくてもまず水が提供される。私たちの身近にあまりにも“あたりまえ”に存在する水について、考えたことはありますか?
フェアトレード、オーガニック、自家焙煎にこだわるコーヒーロースター「SlowCoffee」(有限会社スロー)。生産者の生活を守り、自然環境にも消費者の健康にも配慮した、高品質なコーヒー豆を販売しています。スロー社の代表・小澤陽祐さんは、千葉県松戸市から岐阜県郡上市に移住し、行き来を続ける2拠点生活の実践者です。
小澤さんが郡上で暮らすようになった背景には、“水”にまつわるストーリーがありました。
震災直後、郡上の水が気づかせてくれたこと
小澤さん「水がなければ、コーヒーも飲めない。僕らは仕事ができなくなるどころか、生きていけなくなる。そう痛感したのは、東日本大震災がきっかけでした」
3.11の震災後、松戸市の生活水源である江戸川では、雨によって降り注いだとされる放射能物質が検出されました。一時的に水道水の摂取制限が通達され、市役所などで臨時給水が行われる状況に。
「近くのスーパーでは、買い占めによる水の奪い合いが起きていました。ガソリン不足で給油もできない、トイレットペーパーも手に入れられない。今までの生活基盤がいかに脆く、“あたりまえ”ではないものだったのか、思い知らされました。そんなとき、郡上に住む義父が、おいしい湧き水をタンクに汲んで送ってくれたんです。その水のおかげで、追い詰められていた心が救われるような感覚がありました」
郡上市の中でも観光地として人気の郡上八幡エリアは、長良川の上流に位置し、いたるところに自然水が湧く“水のまち”。環境省の「名水百選」第1号に指定された「宗祇水(そうぎすい)」など、美しい水風景が多く見られます。湧き水は生活用水としても活用され、昔から郡上の人たちは水資源を大切に守りながら暮らしてきました。
震災からしばらく、千葉県に住み続けていた小澤さん。そのまま近場で新居を建てようと計画していましたが、郡上に移住するという選択肢が浮かんだそうです。
小澤さん「子育ての観点からも、自然豊かな郡上の暮らしに惹かれました。悩んだ末、家族での移住を決断。2015年に引っ越し、しばらくは妻の実家に身を寄せました。2016年に新居が完成。郡上に自宅を持ちながら、月の4分の1ほどは松戸へ仕事をしに行くという生活を続けています」
郡上では、サテライトオフィスを構えて仕事をしているとのこと。郡上八幡のシェアオフィス&コワーキングスペース「HUB GUJO」を利用していますが、その入居の経緯もちょっとした偶然がきっかけでした。
小澤さん「自宅にカーポートを設置したいけど、どこに頼んだらいいんだろう?と考えていたとき、義父が『ご近所さんの家にちょうどカーポートができたばかりだから、詳しく聞いてみたら?』と教えてくれて。話を聞きに行った方がたまたま、HUB GUJO代表の赤塚さんだったんです」
赤塚さんに誘われ、とんとん拍子で「HUB GUJO」への入居が決定。ちなみに現在、HUB GUJOにはスロー社を含め16の事業者&20人が入居しています。
太陽光、そして水。コーヒーを通じて“想い”を届けるプロジェクト
「フェアトレード」や「オーガニック」のみならず、「自然エネルギー」や「エコ」への想いが強かった小澤さん。移住準備と並行して、太陽光発電による電気でコーヒーを焙煎する「ソーラー焙煎プロジェクト」にも取り組んできました。
小澤さん「持続可能な電力について、考える機会をもってほしい。スロー社では創業以来、ただ商品を売るだけでなく、事業を通じて“想い”を届けてきました。想いに賛同してくれる人たちの協力があれば、私たちは一緒に心地いい暮らしへと近づいていける。そんな実感も湧いていたのです」
郡上に移住してからは、「震災で痛感した水のありがたさを伝えたい」「郡上の水文化を守りたい」と、コーヒーを通じて水の大切さを発信するプロジェクトを考案。その名も「水出しコーヒープロジェクト」です。このプロジェクトでは、タンブラー・水出しコーヒーパック・水汲みマップをセットにしたオリジナルの『水出しコーヒーキット』を開発しました。
小澤さん「郡上八幡の湧き水を汲めるポイントを記したマップを見ながらまち歩きをして、好きな場所で水を汲んで水出しコーヒーを仕込んでもらおうと。コーヒーを飲むだけでなく、自分で水を汲むことで、記憶に残る体験になると思うのです。都市部で暮らしていると、自然水をそのまま使う機会なんてほとんどないですよね。汲む場所によって水の味が違うので、できあがるコーヒーの味も変わります。楽しみながら、“水”について思いをめぐらせてほしいですね」
「水出しコーヒーキット」は、市内の飲食店・宿泊施設・観光施設などで購入できます。郡上八幡を訪れた際はぜひ、“水出しまち歩き”を楽しんでみてください。
美しい田園風景の“持続性”を考える
水以外にも、郡上の魅力はたくさんあります。小澤さんは、「都市部から移住してきたからこそ、その魅力を発見しやすい」と話します。
小澤さん「たとえば、僕は自宅から見える景色が大好きなんです。視界いっぱいに、青々とした山と田んぼが広がって。すぐ近くには綺麗な川があり、春には川沿いに桜が咲いて、初夏にはホタルが水辺を舞います。この田園風景が、これからもずっと変わらずにあってほしい。…でも、田んぼでお米作りをしている農家さんは、高齢化や後継者不足という問題に直面しているんですよね。20年後、30年後には、近所の田んぼもなくなってしまうかもしれない。大好きな景色を守るために、僕にできることはないだろうか?と常々考えています」
そこで、田植え体験を企画し、田植え作業を手伝ってもらったことも。県外から訪れた参加者は自然の中でリフレッシュできて、農家さんにとっては関わってくれる人を増やすチャンスになる。両者にとってのメリットを見出せたといいます。
小澤「その企画から派生し、現在は酒米を栽培する活動を行っています」
なぜ、酒米なのでしょう?ここにもまた、偶然の出会いが関係していました。
小澤さん「僕が住んでいるのは、郡上八幡の隣町である郡上大和という地域。郡上大和には『平野醸造』という約130年の歴史をもつ酒蔵があります。平野醸造の杜氏である日置さんも、近所で顔を合わせる関係でした。あるとき、日置さんから「もっと、蔵を地域にひらかれた場にしていきたい」という話を聞いたんです。ならば、蔵開きを開催したらどうか?と、一緒にイベントを立ち上げることになりました」
スロー社のある千葉県の酒蔵でも、コーヒー屋として蔵開きイベントに出店していたのだそう。“ひらかれた蔵”の実例を目の当たりにしていたからこそ、一緒にできることがあると感じたのですね。
小澤さん「蔵開き以外にも、地域内外の人を巻き込んでいきたい。そのために、酒米の田植えにも、いろんな人に関わってもらおうと企画しました。みんなで作ったお米から醸された日本酒。関わった人にとっては感慨深く、愛着がわきますよね。また、水・米・杜氏など、郡上のものにこだわることで、 “メイドイン・オールグジョーの日本酒”と掲げています」
すべては、「大好きな郡上の景色を守りたい」という想いと、人と人とのつながりから始まった、小澤さんらしい、そして郡上らしい挑戦。
小澤さん「郡上は、人と人との距離感がすごく近いんです。初対面でも気さくに話しかけてくれたり、ご近所さんが何かと気にかけてくれたり。そうした人の温かさがあるからこそ、僕は郡上が好きだし、郡上が魅力的なまちであり続けるための役に立ちたいですね」
新型コロナウイルスの影響で郡上大和の朝市が休業し、「商品が余って困っている」と聞いたときには、SlowCoffeeのオンラインショップで代行販売をしたことも。地元で採れた旬の山菜を販売したところ、大好評を得ました。コーヒーの種類が豊富なのはもちろん、オンラインショップではこうした“産地のおいしい食べ物”が登場することがあるのもユニークです。
▼SlowCoffee公式オンラインショップ
https://slowcoffee.shop-pro.jp/
今後も、地域の内外をつなぐ役割を担っていきたいという小澤さん。その心を動かしているのは、綺麗な水や綺麗な景色、一見“あたりまえ”に思えるものたちです。“あたりまえ”を見つめ直すことの積み重ねが、少しずつ人の行動を変え、ソーシャルグッドなまちの未来をつくっていくのかもしれません。