「仕事を辞めて飲食店をやりたいんだけど」「いいんじゃない?」そんな会話から生まれたカフェバル『ばるじぇの/暮らしのうまみ醸造所』。実体験から構想を練り、おなかも心も満たされる場を目指しています。
川沿いにある金澤町家を仕事と暮らしの場に。
2023年9月にオープンした『ばるじぇの/暮らしのうまみ醸造所』(以下、『ばるじぇの』)があるのは、石川県金沢市内を流れる浅野川沿い。野鳥が立ち寄る自然豊かな川を眺めることができる場所にある。築約100年の「金澤町家」をリノベーションした店舗は1階が飲食店、広い和室がある2階がグループでの飲食利用やイベント用のフリースペースになっている。店舗の横につながる形で『ばるじぇの』店主の松田崇志さん、裕子さん夫妻と子どもたちの住まいがあり、仕事と暮らしの場がとても近い。
「店名の『ばる』は、スペインに留学していた時にコーヒーもお酒も飲めて、食事もでき、トイレの利用だけも可能で市民の駆け込み寺みたいな場になっていていいなと思った『バル』から。『じぇの』はスペイン語の『フル(いっぱい)』から取っています。おなかも心も満たされる場にしたいという想いを込めて、店名を決めました」。そう話す裕子さん。その言葉の通り、『ばるじぇの』が大事にしているのは、おいしい食事や飲み物の提供だけではない。おしゃべりやイベントを通じた心地よい場づくりも、大切にしている。この場所に込めた想いを割合で表現するなら「飲食」が4割、「誰かの記憶に残る場」が6割だという。
『ばるじぇの』のアイデアが生まれたのは、2020年。当時、東京都内に暮らしながら会社員として働いていた崇志さんが、コロナ禍で自身の生き方を見つめ直したことがきっかけだった。「自分の仕事のやりがいとして『誰かの記憶に残ることを成し遂げたい』と考えました。思い浮かんだのが、日々の暮らしの中でちょっとした豊かさや幸せを感じることができ、身体も心も喜ぶ、そんな場所を提供することでした。料理が大好きで来世は料理人になりたいと考えていたので、それが早まった感じでもあります」と崇志さんは話す。
第一子が1歳のタイミングでの、会社員から未経験の飲食店経営への転換。反対されそうな決断だが、裕子さんからの返事は「いいんじゃない?」だった。「私はずっと場づくりがしたかったので、話を聞いた時は『ついにこっち側に傾いた。やった!』という気持ちでした(笑)」。
そこからは急ピッチで話が具体的に進んでいく。崇志さんは調理師免許を取得すべく夜間の専門学校に通い、同時に崇志さんの実家がある金沢市、裕子さんの実家がある千葉市で店舗兼住居の候補地を検討した。そこで出合ったのが予算に合い住居としても使える、条件にぴったりの今の場所だった。2人とも海外や日本のさまざまな場所に住んだ経験があったので、東京から金沢市への移住の決断は、周囲が驚くほど軽やかだった。
大切にしているのは、誰も無理をしないこと。
2人は仕事と暮らしをうまく回すために話し合いを重ねながら役割分担をしている。『ばるじぇの』のメニュー内容から調理、会計まで飲食関連の業務は基本的に崇志さんが担当。裕子さんはメニューやお知らせの作成、SNS更新、イベントの企画運営を行っている。暮らしの面でもそれぞれが得意なことを担うスタイルで、裕子さんが子育てまわりを、崇志さんが料理、洗濯、掃除などの家事全般を担当。仕事も暮らしも「ちょっと違うかな」と感じたら、それを伝え合い最適なスタイルを模索しているそうだ。
移住の際にそれまでの仕事を辞める人もいる中で、裕子さんは会社員としてリモートワークで仕事を続けている。一家のブレない収入源でもあるのだが、裕子さんは「家族のためではない」と断言する。「今の仕事が好きだから続けたいという私の気持ちと、夫の『心の保険のためにも会社員を続けてほしい』という希望がうまく合致したんです」。
『ばるじぇの』のメニューも固定せず、食べたいものを考え前日にSNSに掲載し、提供している。「自分が食べておいしいと感動した石川県産の食材にこだわりつつ、やっぱり自分が食べたいと思ったものを食べてもらいたいなって」と崇志さんは笑う。ほぼ毎月行っているワインやウイスキーを一緒に飲むイベントも好評だ。4月には料理上手な常連さんによる「ヴィーガンランチの日」の開催も予定されている。
裕子さんが主担当のイベントには、大学生、親子連れ、祖父母世代まで多様な人たちが集まってくる。その秘密は、内容の多彩さ。地域の方からの持ち込み企画としてはじまったヨガや、ゴミ拾いをした後に一緒にコーヒーを飲んだり朝食を食べたりする清掃イベント、クリスマス会、七段のひな飾りを一緒に並べる会などバラエティに富んでいる。裕子さんは本業や子育てと並行して進めているが、本人に「つらい」という感覚はないと言う。「自分が妄想していたことを実現していますし、やれる範囲でやっているので好きな仕事が増えている感覚です」。
場を通じて、新しい価値観も提供。
こうした「場づくり」に加え、お店で大切にしているのが「循環」というコンセプトだ。1階のカウンターの一角には量り売りコーナーがあり、調味料や乾物、ドライフルーツ、洗剤を瓶や紙袋に入れて必要な量だけ買える。調理時は食品ロスが出ないように、料理の仕込みも必要最低限に。ランチで売れ残った分は家族の夕食にしている。今春からは、コンポストと有機栽培の畑の勉強をしてきた裕子さんが、お店と各家庭から出る生ごみを堆肥化し、畑に撒いてみんなで野菜をつくるプロジェクトをはじめる予定だ。「環境のことを考えたアクションを通して新しい選択肢があることを知らせていきたいです」と裕子さんは話す。
今後の『ばるじぇの』について聞くと「いろいろな人が素の自分で立ち寄り、元気になれるような第二の家にしたいです。家族としては、全員がやりたいことを叶えられる場にしていきたいです」と、裕子さん。その言葉にうなずきながら崇志さんは「僕たちだけでなく、今以上にお客さんたちもやりたいことを実現する場にできたらと思います。あとは各家庭でなく、地域のみんなで地域の子どもたちを育てていけたら最高ですね」と目を細めた。浅野川のように穏やかでゆったりとした時間が流れる『ばるじぇの』。これからどんな場に育っていくのか、とても楽しみだ。
『ばるじぇの/暮らしのうまみ醸造所』・松田崇志さん・裕子さんの、
移住にまつわる学びのコンテンツ。
Movie:僕を育ててくれたテンダー・バー
2021年アメリカ、ジョージ・クルーニー監督
主人公の少年の叔父がバーを経営しており、少年が叔父やバーの常連たちからさまざまなことを教わり、成長していく物語。『ばるじぇの』も、子どもたちが多様な大人たちと話せる、このバーのような場になってほしいです。(松田崇志さん)
Place:MINATO BARRACKS
千葉県館山市にある、賃貸住居や交流スペースがある複合施設。家族で以前訪れたのですが、移住先や二拠点生活の住まいとして利用している方もいて、多様な人たちが交流できる場になっているのがいいな、と感じました。(松田崇志さん)
Place:雑司が谷の小さな商店たち
東京都豊島区雑司が谷
移住前に住んでいた東京・豊島区雑司が谷では、よく小さな商店に行きました。お店の方々が、消費者ではなく人格を持つ「人」として私に接してくださったのがうれしかったです。『ばるじぇの』もそういう店のあり方を目指しています。 (松田裕子さん)
photographs by Yusuke Abe text by Miho Soga
記事は雑誌ソトコト2024年5月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。