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人の感性にダイレクトに届くような、 建築を“創り”たい。津川恵理

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ダンスを通して表現者になりたかったものの、最終的に建築家となった津川恵理さん。長年、身体表現を学んだ彼女が、いま、建築家として伝えたいこと、造りたい形とは何か。

「答えがないものを探し続ける職業に就きたかった」。そう話すのは、29歳の若さで、阪急神戸三宮駅東口、JR三ノ宮駅西口の北側に位置する駅前「さんきたアモーレ広場」のデザインコンペで最優秀を受賞した、建築家の津川恵理さん。2018年から1年間、文化庁新進芸術家海外研修員として、米国ニューヨークの『Diller Scofidio+Renfro(DS+R)』に勤務、高架鉄道の跡地を公園にした『High Line』のプロジェクトや国際コンペ、PRADAのバッグのデザインに関わり、19年春に帰国。その後『ALTEMY』を設立した建築家だ。

神戸広場(コンペ時)
「さんきたアモーレ広場」のデザインコンペで最優秀賞を獲得した『Lean on Nature』。予定調和ではなく自由に、使う側に使い方を委ねる設計となっている。
Mile long opera
津川さんが携わった、『High Line』での都市演劇『The Mile-Long Opera:a biography of 7 o’clock』。
目次

建築は、表現の延長線上に。

 津川さんは、もともと建築家を目指していたわけではない。「小学校高学年から高校ぐらいまで、本気で表現者になりたかったんです。私の家は親が教育熱心だったのもあり、小学校から受験勉強に明け暮れていたけど、心動かされる瞬間はいつも表現者を見たときでした。一瞬で魅了され、興奮するような、そういう人になりたいと思い」、彼女は親の反対を押し切って独学でダンスを勉強。オーディションをいくつも受けるが、「いいところまでいっても、結局親の承諾を得られなかった」という。どれだけ自分がやりたくても、親の反対に直面したとき、津川さんは「未成年である限り、表現者の道で生きていくのは無理」と気づき、高校2年生のときに表現者になることを諦めたという。

 しかし津川さんは、反対に自分の置かれている環境を有効に活用しようと思い、大学受験を決意。その中で理系の中でもクリエイティブ性がありそうなのは建築かな、という感覚で、大学の建築学科に入学する。「周りはこの建築が好きだからとか、中学時代に建築雑誌を読んで感動したから、などという動機で建築を目指している人が多かったんですよね。でも、私はもともと表現者になりたい延長線上に建築があると思って、建築の道を選んだ」。だからか、学部時代は建築とはあまり真正面から向き合えなかったという。

 ではなぜ、津川さんは最終的に建築家という職業を選んだのか。

実装体験と、上の世代への憤り。

 その答えを津川さんはまず、「マイナスな状態を正常に戻すとか、決まり切ったことをやるというよりは、自分で新しい答えを提示する側にいきたいなと思ったから。それに自分が元々興味のあるダンスや服飾、アートといった要素を全部建築に巻き込めたら、独自の建築が打ち出せるな、と思ったんです」と語る。

 津川さんが、建築と自分は地続きだと思ったのが、1995年の阪神・淡路大震災のとき。自宅が半壊し、半分は新しく建て直されたが、もう半分は古いまま。そのアンバランスさと、新しい家についていた天窓から一日の光の流れを部屋で体感するという、劇的な住環境の変化を体験したことだという。そして2011年の東日本大震災を経験し、「ガラッと日本の建築界の風潮が変わったことを実感しました。そして一部の人が建築の形にこだわることより、”コト系“に走ったんです。要は、造ることに対して恐れがあるというか、形を造ることに一部の建築家が向き合わなくなった」ことに憤りを感じたという。

 さらに、いまの建築教育は、建築とはこういうもの、これが設計と教え込まれることがあるという。「でもそれをただなぞっていくだけでは、これからの建築を考えられない。建築家である以上は、建築物を造ることに向き合っていたいと思います」。確かに造ることに真正面から向き合わなくなると、それは建築家ではなく、別の職業になってしまうだろう。続けて津川さんは、「あくまで形とは向き合いたいけど、形を通して人や土地、経済、地域、社会という目に見えない事象にどう向き合うか語れない形は造りたくなくて。私は社会に、この地に、この建築物を造ってなにをしたいのか、というのをちゃんと語れる建築家になりたいと思っています。それが顕著に表れているのが、駅前広場設計ですね」と言う。

さんきたエリアパース
「さんきたアモーレ広場」の最新版完成イメージ。阪急神戸三宮駅東口、JR三ノ宮駅西口の北側に位置する「さんきたアモーレ広場」は、通称“パイ山”と呼ばれていて、待ち合わせの名所でもある。

ニューヨークと日本。

 しかしこのコンペ、「ニューヨークに行き、『DS+R』で修業を積んだ経験を、最後に1回アウトプットしてみたい、という純粋な気持ちだけで作り上げたので」、自分が獲れるとはまったく思っていなかったという。「コンペに勝つ勝たないを超えて、自分が描いていた公共空間を形にして、1回出してみたかった。言ってしまえば、自分の作品集に入れたいっていう、ただそれだけやったんで、連絡がきたときには、喜びよりも驚きが勝りました。神戸市ほんまに? 大丈夫?」と思ったが、「本当に自分が思っているものをそのまま表現できた」作品だと語る。

 ではどうして、津川さんはニューヨークで修業することを選んだのか。「ニューヨークを選んだのは、バックボーンも国籍も違う人が集まっているカオスな都市であり、公共性が高い都市だと思ったし、そういう人たちを受け入れられる器というのが、果たしてなんなのか、それを学び、体感したかったんです」。

 津川さんはそこで、アメリカ人の他人は他人、自分は自分というドライな関係性を目の当たりにし、日本の特異性に気づいたという。「日本はなんでも必要以上に守られているし、他人のやっていることが気になって、他人の目を気にしがち。そのうえ、答えがそこかしこに提示され、自分で能動的に思考するという機会に恵まれていないなと」。確かに日本はどこにでもルールが存在し、それに従い、自ら考えることが少なくなっている。それに空間や場に対してとても無頓着だ。目的地に行くにしても、最短距離で行くことを重視して余白を楽しむことを忘れてしまっている。そういうことにあえてメスを入れたい、日本を変えたい、変わってほしいという気持ちもあり、駅前広場を設計し、日本に帰ってきたという。「みんなにはアメリカから帰ってきたことは驚かれましたし、自分でも驚いています(笑)。でもちゃんとプロとして、日本になにかしら建築で、自分の考えや思いを提示し、残していきたいんです」。

 建築は文化と芸術。

 けれども、いまの日本において、見たことのない、外見も使い方も新しい建築は受け入れがたいのではないだろうか。「多くの人に受け入れられるような建築物を造りたいとも思うし、それを超えたいという気持ちがある。確かに今回のプロジェクトも、あえて使い方がわかりにくく、定義しすぎない場所を提示しました。でもそれをただ使ってくれというのは暴力的なので、完成した際は、なんかしら身体的表現などを使って、使い方を提示したいなと思っています」。確かに言語などを介して説明をすれば、その場所の意味や使い方は伝わるかもしれないが、ただそれだけで終わってしまう。自分からその場を楽しみ、使い方を構築する、というのは難しいかもしれない。「私が表現者に惹かれたように、人の感性にダイレクトに届くような建築と、それを伝える新たな手法を取りたいんです。私はそれは芸術と文化だと思っています。いわゆる都市演劇のような、その場所の使われ方、場所の潜在的なものを提示したい」と語る。

N.Y.都市実験
ニューヨークで行った、風船を使った都市実験。
神戸都市実験
神戸市三宮の三宮本通商店街で行った、風船を使った都市実験。
神戸市都市実験_補足
ニューヨーク(写真上)と神戸市三宮の三宮本通商品街(写真中・下)で行った、風船を使った都市実験。公共性の高い場所で、個々の感性から生まれる行動の違いをいかに引き出せるか。それを実験的に試みたもの。データアナリスト・中川直美さんとの協働。コンピューターサイエンティスト・鈴村豊太郎博士による解析。

 ルールに絡め取られ、滞留してしまっている日本を変えたいと言う津川さん。この駅前広場プロジェクトも、ニューヨークという街で、本場の表現に触れ、得た知識や価値が存分に生かされる空間になることは間違いないだろう。

 しかし、津川さんのように、建築を身体的な表現の延長線にあるものとしてとらえる力を持つ建築家はほとんどいない。どれだけ建築の本を読んでも、津川さんの感覚を得ることが難しいのは間違いない。だからこそ、これから津川さんがどう建築のあり方を変えていくのか、注意深く、しかしながら期待を持って注目していくべきだろう。間違いなくそこには、津川さんが一瞬で心惹かれた表現者のような建築が、私たちを楽しませてくれるだろうから。

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