門司港のアトリエを訪ねる
台風一過で秋めいた空の高さを感じる昼下がり。北九州市・門司港の海岸沿いに新しくオープンしたアトリエを訪ねた。ミシンを扱う彼女の隣りで、門司港在住の絵描き、黒田征太郎さんがちょうど絵を描いているところだった。
川崎市生まれの服飾デザイナー、山本千聖(やまもと・ちさと)さん。彼女と出会ったのは、黒田さんの旧アトリエでの作品整理の現場だった。山本さんは当時、福岡県・広川町での地域おこし協力隊の任期を終えた直後で、約半年に渡る作業をしながら、いろいろと話をする機会に恵まれた。
「服」と「庭」の共通点
彼女との会話から薄々と感じていたのは、「ファッション=服」ではないこと。例えば、服と庭は似ている、という印象的な話があった。服は肌に直接触れている点では違うけれど、いずれも視界に入ってその人を癒すもの。と同時に、その人の”纏うもの”が現れもする。しっかり手入れした庭、自然に委ねた雑木の庭……個々の人間らしさが滲み出る装いは、多様性があるのが自然。全てを受け入れたいと話す。
自分を守ってくれた服
子どもの頃の夢を聞いてみると、驚くことに、小学生の頃から一度も変わっていないという。ファッション好きの姉の影響で、小さい頃から服を見るのも着るのも考えるのも好きだった。口下手だった彼女にとって、服は言葉代わりのようなもの。引っ込み思案だけれど「オシャレだね」とよく言われた。服を着ることで自分を保っていられたという。
20代前半でファッションがわからなくなる
覆されたファッションの概念
東京の文化服装学院で服の作り方を学んだあと、デザインそのものをさらに深く学ぶため、私塾「ここのがっこう」に入学。小さいながらも世界に挑戦していた塾では、本気でクリエイションに向き合わなければ挫折してしまうような、精神的にハードな環境だった。そこで、ファッションの概念が大きく覆されることに。それは、彼女の人生そのものを考え直さねばならないことを意味していた。気づいてはいたけれど逃げてきたテーマに正面から向き合うことになり、人生でもっとも落ち込んだ時期だったという。
生産現場に近づきたい
「ここしか知らないから苦しいのかな?」「もっといい場所があるかもしれない」。そんな思いを抱いていた頃に声がかかったのが、福岡県広川町の地域おこし協力隊だった。広川町は「久留米絣」の工房がもっとも多い町。東京では生地の小売店で選ぶことしかなく、「生地の生産現場に近づきたい」と感じていた彼女にはぴったりの場所だった。募集の締め切り前日のことだったので、勢いにのって応募。トントン拍子で話が進み、生まれて初めて福岡の地に足を踏み入れることになった。
「場づくり」の3年間
地域おこし協力隊では、ものづくりをテーマにした拠点として、「洋裁ができるコワーキングスペース」のオープンに尽力。任期の3年間で、久留米絣の生産現場を訪ねたのはもちろん、イベントやトークショーを行い、最後の年には自分の展覧会も開催させてもらった。タイトルは「Have rice, Have lilies」。影響を受けた哲学者、國分功一郎さんの著書『暇と退屈の倫理学』にあった一文「わたしたちはパンだけでなくバラも求めよう」を引用し、「パンとバラ」を、自分にとってより身近な「お米と百合」に置き換えた。これには、食べるという身体的栄養だけではなく、在ることによる精神的栄養もどちらも必要、との彼女の想いが込められている。
闇から抜け出せた場所
意図せず福岡の2拠点生活が始まる
任期を終えたタイミングで広川町から八女市に引越し、生活場所かつ活動拠点として古い民家を借りた。そして冒頭に書いたように、縁あって北九州市・門司港のシェアハウスに滞在しながら作業に関わるうちに町の人と親しくなり、門司港にも居場所ができた。意図せず、八女と門司港の2拠点生活がスタートしたのだ。静かで落ち着いた八女と、賑やかで開放的な門司港が、いいバランスで彼女の生活を支えているという。
勝ち負けの世界からフラットな世界へ
関東を出て初めて、自分の生まれた場所を客観的に見ることができるようになった山本さん。福岡は、人、食べ物、自然環境、その全てにおいて精神衛生的によく、また、遠く離れた土地に来ることで、一人になる時間をもてたことも大きかったという。
服を作るうえでも感触の違いがあった。東京ではファッションが勝ち負けで測られがちだけれど、福岡では良くも悪くも批判する人がいないので、フラットにファッションと向き合うことができる。また、東京にいた頃はデザインありきで生地を集めていたのが、今では地元生産の生地や古着の生地がまずあって、そこからどんな服が作れるかを考えるようになった。
ケアする服とは?
「長く続けること」「普段着」へのこだわり
これからの活動について聞いてみると、2つ教えてくれた。
1つは、長くファッションを続けていくために、一度きりで終わらないような活動をしていくこと。ファッション業界にも変遷期が訪れている今、「サステイナブル」が唱えられる時流。昔、映画「TRUE COST」を観て服の製造過程で人の命が奪われている現状を知り、業界で戦争にも似た悲惨な事態が起きていることにショックを受けたという。服をとりまく環境も含め、ファッションのあり方を20年以上前から意識してきた。だからこそ、最低限人を傷つけず、自分でもてる分だけの責任を努められるようにと、現在は一人で服を作っている。
もう1つは、「care (ケア) するファッション」に挑戦すること。コロナのこともあり、矢印が「内」に向かっていく時代。「誰かのためよりも、自分のためのファッションであってほしい。どう見られたいかではなく、自分がどうありたいか。だから、わたしは普段着を作りたい」。自然の装いで、人間が回復していけるような服を。
ユダヤの詩人の言葉
投壜通信のような想いを込めて
日が暮れて、対岸の下関の町にも灯りがともり始めた。山本さんは最後に、パウル・ツェランというユダヤ人の詩人の話をしてくれた。
死のうと思った時に、自分の心に残った言葉を書き残すために、もう少し生きようとした人だという。彼は、「詩は投壜通信のようなもの」という言葉を残している。言葉を記して瓶に詰め、海に放る投壜通信。誰の手にも届かないかもしれない不安の中、それでも小さな希望を託して世に放る。服もまた、ツェランのいう詩のようなものでもあると感じている。
「わたしは人が好きだから服を作るのだと思います。生きる意味を実感できるのは、誰かがいるから。目的がはっきりしていなくても、誰かに届けと思って作り、放る。それが大事なことだと思うのです」。