ゼロになった町から、日本で一番のワクワクを。

連載 | 「自分らしく生きる」を選ぶーローカルプレイヤーの働き方とは | 28 ゼロになった町から、日本で一番のワクワクを。 全町避難の町へ移住した元外務官僚の挑戦。

中学時代の恩師の影響で社会課題に関心を持った高橋さん。外務官僚として安全保障問題や通商問題に携わりますが、様々な社会課題との出会いをきっかけに、民間企業への転職、東北復興の支援、移住してのまちづくりなど、チャレンジの舞台が変化していきます。なぜそこまで社会課題を自分ごととし、困難な課題に立ち向かっていけるのか。お話を伺いました。

恩師に学び、社会課題の解決を志す


埼玉県の新座市に生まれました。幼稚園ではとにかくわんぱく。小学校に上がってからは勉強もスポーツもそこそこできましたが、いわゆる優等生タイプではなく、同級生をからかったり悪さをしたりする子でしたね。

でも中学1年生で担任になった先生に、ある時、「相手や社会の持つ課題を知らずに、軽々しい発言や行動をするな」と諭されたんです。表面的に叱りつけるのでなく、背景にある社会課題から教えようとする姿勢に心が動かされ、悪さをやめました。先生は3年間担任を受け持ってくれて、その間に弱者への視線や考え方、問題意識をたくさん教えてくれました。その影響で僕自身も、社会課題に関心を持つようになったんです。環境問題について勉強をして、文化祭で発表したりもしましたね。

高校は、大学までエスカレーター式の私立校を受験して合格。ごく普通の高校生活を送っていた2年生の時に、北朝鮮がノドンというミサイルを日本海に試射する事件が起きたんです。

翌日の新聞を見て、「ミサイルの射程距離に日本はすっぽり入っている。原子力発電所に当たって爆発でもしたら、日本は終わってしまう」と恐ろしくなり、何とかできないかと「安全保障」に強い関心を持つようになりました。そして日本の安全保障には、アメリカを中心とした他国との「外交」が重要だと考え、政治や外交・国際関係の本を読み出しました。

大学へ進学し、3年の夏には外交政策・国際関係学を学ぶためにアメリカの大学へ留学。初めての海外生活で、授業についていくのもやっとでしたが、なんとか1年間の留学を終えて、外交官になろうと決意を固め44年生の夏に帰国しました。

でも外交官の試験は大学1年生から準備を始めても、受かるかどうかの狭き門。しかも受験のタイミングは1年に1度の6月だけ。受験を決めたのが大学4年生の夏だったので、この時点で留年し大学5年生になることが確定しており、さすがに更に親のスネをかじる訳にはいかないと思い、1年未満という準備期間ですが1度きりのチャンスを掴むために死ぬ気で勉強しました。

自分を縄とびで椅子に縛り付け、寝る時間も惜しむ日々。無理をしすぎて、肺に穴が開いて空気が漏れる「気胸」という病気になり2回入院するなどトラブルもありましたが、なんとか大学5年時の外交官試験に一発合格できました。


公から民へ


1999年に外務省へ入り、最初は軍備管理・軍縮の所管部署へ配属されました。外務省では入省して2年が経つと世界各国いずれかへ留学するのですが、私は2001年の夏からアメリカの大学院へ留学しました。

今回は、前回の留学経験が活きて勉強もクラスメイトとのコミュニケーションもスムーズにこなせ、たくさんの友人を作り、彼らからアメリカ文化や思考を学ぶことができました。楽しく充実した毎日で、留学にあたって決めていた「英語をもっと完璧にする」「リーダーシップを取る」「アメリカ文化を知る」という目標も達成できました。その後、ワシントンにある日本大使館の政務班で日米安保や核問題を担当し、2年間勤務した後、日本へ帰国しました。

帰国後は霞ヶ関の外務省で、日米通商問題を担当する部署へ。この時、日本経済は、既に長いデフレ不況の中で中国などに追い上げられ、農林水産業、地域経済の疲弊をはじめ、大きな課題を抱えていました。そして役人として働くほどに、焦りとともに、「一円も稼いだことがないのに経済について語っている」と感じるように。評論家のような自分に違和感を覚えたんです。

自ら日本の経済を立て直せるプレイヤーになろうと、民間企業への転職を決意しました。ただし民間に行っても、心は常に日本のため、パブリックのために働く、と誓いを立て、お世話になった皆さんに約束をして外務省を離れました。

ビジネススキルを手っ取り早く学べそうだという理由で、外資系のコンサルティング企業へ就職。最初は勝手が違いすぎるし、本気で取り組みたいと思える仕事にも出会えず、全然うまくいきませんでした。しかし、地域の基幹産業であり、高齢化などの課題も多いことから関心を持っていた農業のプロジェクトを自ら獲得し、推進できることになり、そこでは成果を出すことに成功。自分は、自らが課題と感じ、解決したいと思ったことでこそ力を出せる人間なんだと認識しました。


東北で出会ったヒーローたち


その農業プロジェクトの最終日、2011年3月11日。都内のオフィスで報告書を作っているときに、東日本大震災が起こりました。テレビなどを見るタイミングがなく、あまり深刻に捉えていなかったのですが、翌日、福島の原子力発電所が爆発する様子をテレビで見たときに、中学の時に衝撃を受けたノドン事件がフラッシュバックして。「恐れていたことが起きてしまった。何かしなくては」とスイッチが入りました。

所属する企業の中で東北支援の活動をしようと働きかけたのですが、すぐには叶わなかったため休職。NPOに参画し、現地で緊急支援物資の配給の調整作業などを行っていましたが、時間が経つにつれ、モノの配布ではなく、長期的な産業復興支援が必要になると考えるように。ちょうどその頃、2011年の4月に、東京で、食産業復興のための動きがあるという話を聞き駆けつけました。そこから、一緒に活動を始め、6月に一般社団法人「東の食の会」を設立、事務局代表に就任して実務を統括することになりました。

会の目的は、「東日本の食の復興・創造の促進や、日本の食文化を世界に誇れるブランドとして確立すること」。発起人の一人が、設立前の打ち合わせで、「ヒーローを生み出す」いうコンセプトを提案したのに感銘を受けました。。同じ年、コンサルティング企業を正式に退職して、「東の食の会」の発起人の一人が代表を務める食の企業にも兼業で入社し、本格的に地域や一次産業と向き合うことになりました。

東北では、多くのヒーローの原石たちと出会いました。彼らは自分たちだけが潤うことを良しとせず、「地域全体を盛り上げよう」「目先ではなく50年後の未来を考えよう」と考えていて。考え方の芯から尊敬できる人ばかりでした。

ギネス記録の糖度を超える「世界一甘い桃」を作る農家。“カッコ良くて、稼げて、革新的”という「新3K」を合言葉に、漁業の在り方を変えようとする若手漁師。語りはじめたら止まらなくなるほど、たくさんのチャレンジが東北にあります。

そんな彼らの後押しをして、原石が真のヒーローへ変化していくお手伝いをするのが僕たちの仕事。漁師と一緒にワカメの店頭販売をすることもあれば、マーケティングやブランディングの技術を活かして『サヴァ缶』などのブランドを立ち上げ、国内外の販路を開拓することもあります。

そうした活動の中で、復興庁と共に「東の食の実行会議」という会議も立ち上げました。東北の食の産業復興に向け、生産者や食に関わるリーダーたちが集まって食産業として取り組むべき方向性のビジョンを確認し、連携してアクションを起こしていくコミュニティです。二日間の会議で具体的なアクションを生み出すために、皆で膝をつき合わせて議論します。2014年から年に1度のペースで会を開き、一緒に活動をしていく中で、東北のリーダーの素晴らしいコミュニティができていきました。


国道6号線のバリケード


そんな「東の食の会」の活動を行う中で、福島ヘは何度も足を運びましたが、原発事故により避難指示が出された12市町村には、関わることができていませんでした。福島の沿岸を縦断する国道6号線の規制が解除されて通行ができるようになって、目にしたのは、避難指示区域に人が入らないように延々と張られたバリケード。その光景を見た瞬間、息が苦しくなり、胸が締め付けられ、なんと表現したらよいのかも分からない感情が全身を走りました。

それまでにも各地の被災地を周り、崩れた建物や瓦礫、土砂など、大変な光景をたくさん見てきたのに、全く違う。そこは原発事故の直後から時が止まり、誰一人として存在しない、まさにゴーストタウンだったんです。「1番大変な問題に出逢ってしまった。この問題から目を背けるのは、逃げることだ」と感じました。

それまでも東北の復興に向けて様々な活動をし、自分にできることをしてきたつもりでした。でも、あくまでもベースは東京。福島のこのゴーストタウンと化してしまった場所から遠く離れた、なんの不自由もない環境で「こうした方がいいんじゃないか」なんて評論家のように意見を言ってても全然違う。「日本中の英知を集めて解決すべき課題」に向けて、まずは自分がこの地に来て、本気で“自分ごと”として活動しなければ説得力がないと思い、福島を軸に活動することを決めました。


ゼロから、日本で一番のワクワクを


現在は、福島県の避難区域12市町村の一つ、浪江町に移住し、新たに「NoMAラボ」という一般社団法人を創り、代表を務めています。事業内容は、まちづくりに関わることなんでも。これまで東北の他の地域では、力強いヒーローたちと、新しいものをたくさん作ってきました。それはとても楽しかったし、産業という視点でインパクトも出せたと思っています。でも浪江町をはじめ、一度ゴーストタウンとなった地域では、新たな何かを作る前に、まずはコミュニティの再生をしなくてはいけません。

この地域は本当に一度ゼロになりました。ここに外からやってきた移住者が、新たな物や町を好き勝手に作ったら、この町の伝統も文化も全てが消えてしまう。これまでの歴史がゼロになってしまう。だからまずは、元々住んでいた方たちのコミュニティや、町の記憶、歴史、文化、そういったものを取り戻すことが重要だと思うんです。新たな価値は、その土台の上に築いていくべきものだと思うんです。

自分の視点が「国」というマクロなものから、この10年でどんどんミクロになり、市町村や、それ以上に小さなコミュニティへと移っていきました。この変化には自分でも驚いています。でも、「国」というのは概念で、結局は、「人」。国は、その「人」たちから成るローカルのコミュニティの集合体。地域の産業が潰れ、コミュニティがなくなることは、国がなくなること。そんな当たり前のことに、東北での活動を通じて気づかせてもらいました。

また、資本主義の限界が語られる機会が増えていますが、それにいち早く気づき、「独り勝ちをしても意味がない」、と皆で支え分け合うことを当たり前とする人が、東北のリーダーにはたくさんいます。彼らの考え方は非常に本質的で、これを広めていくことはこれからの日本の社会の在り方や本当の意味での繁栄に大きな意味があると思います。

そして、もう一つ大切にしたいのは、常に、自分自身が楽しむこと。10年活動をしてきて思うのは、ポジティブなことしか広がらない、ということ。自分がワクワクしていて初めて、他の人をワクワクさせることができる。そういうプロジェクトには人やお金が集まり、より大きなうねりになっていくと思います。

様々な課題の最前線、フロンティアのこの町でコミュニティに向き合っていくことは、外務官僚をやめるときに誓った「パブリックのために働く」という想いに通じています。その誓いと、同時に自分自身が楽しいと思える気持ちを大切に、この「ゼロになった町」から「この国一番のワクワク」を産み出し、届けていきたいと思ってます。

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