天然素材を用いて、人と環境にやさしい自然派商品を手がける『サラヤ』。事業の中で大切にしているテーマが「いのちをつなぐ」ということ。『サラヤ』の廣岡竜也さんが、日々医療の現場で“命と対峙する”医師・稲葉俊郎さんとお話をしました。
『サラヤ』が考える、 「いのちをつなぐ」こと。
稲葉俊郎さん(以下、稲葉) 『サラヤ 』の商品は昔から使っています。学生のころから意識して、多少高くても環境負荷の少ないものを選んできました。僕はフィロソフィー、つまり哲学を大切にしています。表面的なものではなく、その中に見える魂みたいなものに対し、対価を払っていると考えています。「いのちをつなぐ」はまさにフィロソフィーですね。
廣岡 コピーのきっかけは、当社の「ヤシノミ洗剤」をはじめとしたパーム油関連商品の原料生産地であるマレーシア・ボルネオ島の環境問題でした。ゾウやオランウータンの保護や熱帯雨林の保全などもしていますが、それらは単に動物を助けたり、自然を守ることが目的ではありません。ある種の絶滅が続いていくと、いずれ人間さえも生きていくのが難しい世界がくるのだと認識して行動すべきだと、生物学者の方からお話を聞き、「いのちをつなぐ」とは、すべての種を、そして次世代に命を「つなぐ」という思いを表現したものなんです。
稲葉 僕は福祉にも関心を持って取り組んでいます。それは、我々みんなが生きやすい社会をつくることにつながるからだと思っています。みんなが生きやすい社会をつくるということは、結局自分を助けている。自分は今元気で、いろいろできるから人にしてあげられるけど、そんなのはいつでも反転する。自分がいい状況にあるときに人を助けるというのは、結局自分を助けることになる。”つなぐ”とは、相互的なものであるという発想。生き物の話にもすごく近いのかなって思います。
菌やウイルスとの共生を、 どう実現させるか。
稲葉 菌やウイルスを含めた生き物との共生をどう実現させるか、が鍵ですね。人間って一旦考え始めると、菌やウイルスを根絶やしにするまでやっちゃうじゃないですか。そうではなく、本当に最適なバランスをつくり出すことが重要。なんでもかんでも菌やウイルスを根絶させるといった発想の衛生になっていくと、それは”いのちのフィロソフィー”が欠けてしまいます。
廣岡 確かに、そのとおりですね。人間のエゴかもしれませんが、人に有用な菌はうまく生かしながら、人に害をなす菌は遠ざけていく。我々は、殺菌消毒剤もつくっていますから、もちろん「菌を殺す」会社でもあるのは事実。でも、一方で菌を生かした洗剤をつくっている会社でもあるんです。
稲葉 『サラヤ』が出しているんですか? 知らなかったです。
廣岡 「ソホロ(SOFORO)」という天然成分です。まさに味噌や醤油を醸すのと同様に、天然酵母の発酵からつくり出しています。
稲葉 人間にとって有益な菌もあれば、そうでないものもある。でも、それがある動物にとっては、同じように作用するとは限らないものもある。少なくとも人間の共同体の中には、お互いにとってのいい菌を育てていく。実際、発酵食などはすべてそういう発想ですしね。衛生環境においても、共生やバランスといった考え方が大切なように思います。
「いのちの居場所」と ウェルビーイング。
稲葉 僕も同じような印象を持っていました。今回の新型コロナウイルスによって、「ウイルス」というものが、みんなすごく身近になったんじゃないでしょうか。ウイルスって、だいたい10のマイナス7乗のサイズ。興味深いのは、人間の10の7乗が地球のサイズです。。つまり、ウイルスから見た人間と、人間から見た地球がちょうど同じ縮尺ということ。示唆的だと思いませんか。小さなウイルスのことについて意識することと、地球に対してリアリティを持つことは、同じことなんじゃないかなって。しかも、それぞれに対しての均衡がちょうど同時期に崩れてきている。僕らが小さいウイルスの存在に脅かされているってことと、地球が、このただの人間になにかバランスを脅かされているという異常事態は実はまったく同じことで、そこをどれだけ私たちが真剣に考えることができるか。このイマジネーションの力こそが、ウイルスと、同時に地球環境に対して立ち向かえる、僕らが唯一持っている力なのかなって。
廣岡 なにか、すべて同期しているように感じられますね。
稲葉 そしてウイルスや、自然環境の問題は、いろんな生きものの居場所がどんどん奪われていっていることに起因しているのではないか、と考えています。コロナも本来触れることのなかった自然にまで人間が入り込んだ結果とも言われているし、開発の結果、シカやイノシシが里に下りてきている現象にも見てとれる。そして私たち人間社会も同じで、おそらく知らないうちにさまざまな人の居場所を奪っているんじゃないかとも思うのです。ウイルスも地球環境も、実は「いのちの居場所」をめぐる問題、と僕は捉えています。
廣岡 「いのちの居場所」とウェルビーイングについての考え方もクリアになる気がします。
稲葉 廣岡さんがおっしゃったように「私の」ウェルビーイングではなく、「わたしたちの」ウェルビーイング。自分の居場所さえ確保していたらそれでいいというのはありえない。ほかの人や生き物の居場所を奪ったりして自分のウェルビーイングを確立していたとしたら、それは本当のウェルビーイングじゃないですよね、きっと。
記事は雑誌ソトコト2022年7月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。