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サスティナビリティ

連載 | こといづ

とづくる

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 目が覚めると、真っ白な霧に包まれて、ところどころしか山が見えない。昨日の朝にはあちらの樹々が島のように霧の海に浮かんでいたけれど、今朝はほとんど覆われて空高く雲の中にいるよう。毎朝まるで違う景色が現れるので、いま住んでいる場所や時代があやふやになる。
 どっしりした山が、ふわっとやわらかな真白い布を羽織って音を立てずに歩いているような。そんな幽玄な世界に、じっくりと昇ってきたお陽さまが、その光をぱっと当てた。桜色、水色、きはだ色、若菜色、白藤色、まるで春のやさしい色たちに霧が染め上げられて、たくさんの虹が舞っているような、この世のあらゆるやさしい色たちを、ひらひら、ふわっふわっと、惜しみなく振る舞って、あたらしい朝がはじまった。

 ガラッと玄関を開けて、太陽を浴びながら、ううんと背伸びをする。たくさんのトンボが黄金に輝いた空気の中を飛び交っていて、それだけで嬉しい。
 少し下に目をやると、妻が張り切って畑仕事をしている。ハマちゃんに教わったように鍬を細やかに扱って、あたらしい畝をこしらえている。大根や白菜たちがわいわいと手を伸ばして楽しげだ。さらに下に目を向けると、いくつかの畑や木々を挟んで、ちらりと2軒の屋根が見える。ハマちゃんの家と、トオちゃんの家だ。ハマちゃんはいつもどおり頻繁に会っているけれど、トオちゃんにはなかなか出会わない。
 お互いに一番奥に家がある者同士ですれ違わないのと、少し前から歩くのがしんどそうで家にいることが多くなった。夕方になると、生協の移動販売車がトオちゃんの家の前に止まる。下りていくと、もんぺ姿の可愛らしいトオちゃんに出会える。「トオちゃん、元気にしてた」と聞くと、「あ~、あかん。こんごろはもうさっぱり。もう92、3やで、最近は目も辛い。あ~、でもメシはうまい」と大きな手で顔をごしごしと覆う。手がのくと、いたずらそうな少女の笑顔がいつもある。「ご飯が美味しく食べられてたら大丈夫やわ」と妻が笑う。「あっ、ほんまにありがとう、ありがとう。いつも声をかけてもろうてありがとう」といつもいつも手を合わせてありがとうと言ってくれる。そういえば、トオちゃんは、いろんな何かに話しかけてはお礼を言っている気がする。こちらがいつもありがとうと思う。

とづくる

 そんなトオちゃんの旦那さまはシカオさん。99歳になっても、夫婦いっしょに、家の裏にある畑にぺたんと座り込んで野菜のお世話している。時々楽しそうな話し声が響いてくる。あんなふうに歳をとれたらよいなあと、ついつい立ち止まってしまう、幸せな光景。ところが、今年の夏、とてつもなく暑い日が続いて、シカオさんを見かけなくなってしまった。家の前を通るとトオちゃんがいたので大丈夫か聞いてみると、「もうあかん。よう食べとらん。でも、こりゃやっとる」とお酒をくいっと飲む仕草をした。
 心配しながらも家に戻ってピアノを弾こうとすると、ああ、そうか、シカオさんが寝とるところにピアノが聞こえてしまうかもしれへんな。しんどい時にがちゃがちゃした音が聞こえるのは、もっとしんどいやろうなあ。そんなことを頭によぎらせながら、それでもピアノが弾きたくて弾いてみると、どうにも、やさしく、やさしく、ふわっふわっとするより、ほかにどうやって弾けるのだろうか。それ以来、弾くたびに、シカオさんに聞こえてるかもしれんと思いながら、そおっと撫でるように、やわらかな音になるようにピアノを弾いた。

 ある朝、救急車の音が聞こえて、慌てて下りていったら、シカオさんが亡くなられていた。
 その日、村じゅうで公民館に集まると、息子のヒロミさんが明るい顔でやってきて「おとんが、亡くなりました。眠った、そのままだったので安らかだったと思います」とできるだけ朗らかに言って、お酒をみんなの前に並べた。「遺言で、わしがおらんくなった日は……」と言葉をつまらせた。声色が変わった。「村のみんなで宴会をしてくれと、楽しく飲んでくれとのことでしたので、どうか飲んでやってください」と伝えてくれた途端、気丈に振る舞っていたヒロミさんの目から涙があふれた。
 いつもは楽しくて頼もしいヒロミさんが、亡くなった親の代わりに言葉を発したとき、シカオさんがふっと降りてきたように、みんなも感じて、みんなからも涙が出た。遺言どおり、みんなでお酒を楽しく空けた。

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