顔が見えない人からの批判や誹謗中傷。こじれて炎上、収拾がつかなくなることも。胃が痛くなりそうな事態だが、涼しげにやり過ごせる人もいる。ソーシャルメディアでいくら叩かれてもそれは仮想の自分。分身のようで幻影、自分であるようで自分ではない。叩く側もまた然り。実名か仮名か、本人を一致させるか否かにもよるが、特定されなければ「それは仮想の自分であり現実の自分ではない」と割り切れるからだ。分身を仮想にするか現実にするかは自分次第。ソーシャルアカウントを本人が特定できるものとできないもので複数使い分けるテクニシャンは多い。仮想と現実が一体化していれば傷つくことも、切り離せば無痛で通せる。仮想の誰かが仮想の誰かを叩き、仮想の第三者が加担する構図。おぞましさの中で何かを学ぶとすれば、仮想と現実の間を泳ぎながら、冷静に客観視することだ。
自らを客観視することは人間の特性で、改善すべきところを発見して成長できる。ゴルフのスイング映像を見て軌道を修正し、スナップ写真の写りをもっとよくするために表情の工夫をする。表面的なところだけではなく、仕事の失敗や人間関係のもつれの原因を省みて、二度と繰り返さないよう努める。客観視できずに備わった行動がパターン化される動物と違い、人間だけに与えられた才能なのである。
何しろ人間は、自覚もコントロールもできない潜在意識に全体の約9割を占められている。顕在意識は表面意識で、意識できる意識、論理的思考、理性、意思。潜在意識は、意識できない意識、感情、感覚、想像。潜在意識は自由に操ることができないがゆえに、無意識の中に潜む能力を引き出し解放することは困難だ。窮地に追い込まれた時に火事場の馬鹿力を発揮し、「そんな力があったのか」と我ながら驚く体験をしたことはないだろうか。天才と呼ばれる人でも3〜5パーセント程度しか解放できないといわれているから、我が力は奥深くに埋蔵されたままなのだ。
親交のあるトップアスリートのエピソードを聞くと、潜在意識から解放している力の存在感が大きい。1988年のソウルオリンピック100メートル背泳ぎ金メダリストの鈴木大地さんは、「ソウルオリンピックでは、泳ぎ始めて75メートルくらいのところで不思議な感覚に陥りました。自分の力だけで泳いでいる感じがしなかったんですよね。まるで動かされているかのような、無の境地というか。運動生理学的にはセカンドウィンドという人もいますし、心理学的にはゾーンに入ったとかいう人もいますが、そんな簡単なものではない感覚なのですよね」と語る。オリンピックで3連覇を果たした柔道家の野村忠宏さんは、「いつの間にか相手を投げ飛ばしていたことがある」と漏らす。天才ならではの潜在意識の解放力なのだろうが、誰だって持てる能力はフルに発揮したい。
その手段となるのが、自分を客観視すること。客観視することで思考や行動をバージョンアップし、潜在意識に支配されている力を引き出す。第三者の意見に耳を傾けることや違う環境に自分を置くことは、客観視の常套手段。そこに、新たな客観視の手段をテクノロジーがつくり出す。海外に住んだり別の仕事に就いたりして環境を変えてみるように、アイデンティティを仮想現実の世界へ送り込み、仮想の自分と現実の自分を分離させるのだ。
デジタルの舞台で仮想のアイデンティティが現実の自分に操られる。たとえ本人が特定されるものであっても、いまここにいる自分に直接影響が及ばず、物理的、心理的にダメージがないかぎり、「しょせん仮想だから」と流してしまえばいい。仮想の自分が他者とコミュニケーションする様子を現実の自分が眺めている。仮想と現実を往来しながら、自分の思考、感情を観察する。じっくり客観視して何が見えてくるか。仮想現実という概念を応用し、客観視の術を増やす。潜在意識の中から、まだ見ぬ自分を引っ張り出すために。