カラフルな糸が描き出すユニークな柄に、思わず顔がほころぶ。刺繍専用の機械で作られているのは、テキスタイルデザイナー・イノクチケイスケさんが手がける、福岡発ブランド「ULOCO」の生地だ。大学卒業後に上京し20代後半で地元・福岡県にUターン。イノクチさんが地元に戻って挑んだ、家業の刺繍技術の復活と自身の挑戦について話を聞いた。
“売れにくい”モノをつくる
イノクチさんが手がけるブランド「ULOCO(ウロコ)」は、刺繍で描かれたユニークなモチーフが特徴。ブランドコンセプトは特に決めていないというが、一つだけあるとすれば、と答えてくれたのは、「“売れにくい“モノをつくる」ということ。
イノクチケイスケさん(以下イノクチさん)「売れるモノは世の中にたくさんあるんですよね。でも売れるということは価格で比較もされる。それが嫌なんです。本当に価値を分かってくれる人に届けたいから、あえて『これは売れにくいだろう』というモノづくりを心がけています」
刺繍のモチーフになっているのは、イノクチさんが日常で気になったモノやコト。まずは自身が下絵を手描きし、そこからパソコンで刺繍用のデータを作成する。データが完成すると刺繍専用の機械でテキスタイルを製造し、服やストール、ポーチなどの製品を作っていく、という工程だ。機械で刺繍すると聞くと手作業よりも効率的なイメージだが、時間も手間もかかるという。
イノクチさん「刺繍データが完成するまで1週間はかかります。自分が描いたデザインが生地になった時にどうなるか、刺繍機で実際に刺繍してみてから生地の伸び縮み具合やバランスをチェックしたりして、修正や微調整を繰り返すので。機械でガチガチに作られた“既製品”っぽいものは好きじゃないので、あえて線をズラしたり甘さを出したり、肌ざわりが良くなるように工夫したりしています」
こうして生み出される「ULOCO」のアイテムは、福岡・長崎・東京などのショップのほか、百貨店でのポップアップショップなどでも販売されている。また、コレクションに登場する有名ブランドからオファーされ、テキスタイルを提供することもある。
イノクチさんが福岡で「ULOCO」をスタートさせて15年。家業の刺繍工場に入社して始めたブランドだが、東京から地元へUターンし、ブランドを軌道に乗せるまでの道のりは決して平坦ではなかったという。
突然終わりを迎える東京での暮らし
実家は刺繍工場で、昔はいわゆる「ネーム屋さん」と呼ばれる、制服や既製服に刺繍を入れる工場だった。刺繍の機械やミシンがあり、イノクチさん自身には特に「家業を継ぐ」という意識はなかったが、刺繍はいつも身近にあった。
イノクチさん「普通に工場に遊びに行ったりしてましたし、親がやっている横で糸を切る作業を手伝ったりもしてましたね」
大学ではテキスタイルを専攻するが、卒業後に服飾デザインを学ぶため上京し、文化服装学院へ入学。2年間のカリキュラムを1年間で身につけるため課題に追われ、学校では夜8時まで、帰宅後も寝ずに朝までミシンを踏むという生活を送った。
イノクチさん「この時は実家を継ごうとは考えてませんでした。デザインやモノづくりが好きで、上京前はバンドもやっていたので、将来は音楽やファッションに関わる作り手になれればなと、漠然と考えてました」
しかし、描いた将来像とは裏腹に、卒業後はそのまま東京で、新薬実験やカメラメーカーの工場、清掃会社、映画の美術など、ファッション業界とは直接関係ない様々な仕事をして日々を送る。そして2~3年が過ぎた頃、福岡へ戻るきっかけは突然やってくる。
イノクチさん「28~9歳くらいですかね、実家の会社で経理をしていた方が病気になってしまい、会社が回らなくなるからとりあえず戻ってきてほしいと言われたんです。当時はまだ個人事業主でしたから、お金の管理を他人に任せるわけにもいかず。それで急遽、実家に戻ることになりました」
福岡に戻るやいなや経理の引き継ぎから始まり、家業での仕事をスタートさせることになる。さらに経理だけでなく、取引先への営業なども担うことに。
傾きかけた家業を目の当たりにして
イノクチさん「その頃は家業を継ぐという意識で仕事はしてなかったですね、全く。当時はすでにアパレル業界も底冷えしていて、よくこの売上げでやってるなと、どこか冷めた目で見てました。工場という土台があるのに刺繍機が動いてない。なぜかというと刺繍の仕事がないんですよね、中国に流れたりしていて。でも工場はあるから人もいるし会社は回さないといけないし。だから今のままなら、『正直継ぎたくない』と思ってました」
当時、実家の会社では刺繍機は使われておらず、柿渋染めの洋服を中心に製造。高年齢層をターゲットにしたブティックなどに営業し、置いてもらっていた。しかし、提案するイノクチさん自身も飽きてきており、提案先の店舗にも「また同じ雰囲気のものね」と指摘されることが増えていた。
自分も会社も生き残るためにした決断とは
刺繍機を復活させ、他にはない刺繍によるテキスタイルを生み出す
イノクチさん「東京で展開するための営業活動もしていました。なんだか無駄なことやってるなあと思いながら。だったら自分で作りたいなという思いはだんだん強くなっていきました。それで、何か新しいことをしないといけないなと、ずっと使われずに止まっている刺繍機を使って、テキスタイルを作ろうと思ったんです」
こうして図らずも始まった自分自身のモノづくり。現在のULOCOが表現する、クスッと笑えるような世界観からは想像もできないシビアなスタートで、今とは真逆の考え方でデザインをしていたという。
イノクチさん「最初はなんとか売れるものを作らないとと思いながらやってたんですが、それだと自分が全く面白くなくて。でもこの頃があったからこそ、“売れにくい“モノをつくる、というところまで振り切れたんだと思います。どうせ売れないなら“売れにくい“モノをつくって結果売れないんだったら自分も納得するかな、と(笑)。それでやってみたら意外と上手く行き始めたんですよね」
刺繍機を使って洋服のテキスタイルを作り始めたところ、テキスタイル自体が高く評価されるようになる。そこで、一旦服作りからは離れ、テキスタイルの製造のみに専念することに。他にはない刺繍での表現方法を模索しながら、唯一無二のテキスタイルを生み出して展示会に出展。すると多くの引き合いがあり、本格的に刺繍工場としての稼働が復活しはじめる。
イノクチさん「それから、テキスタイルをしっかり見せるためにストールを作りはじめたのが、ULOCOのスタートです」
現在は、もともとあった柿渋染めに加え、刺繍機を使ったテキスタイルによる婦人服を複数のスタッフで製造。刺繍加工の仕事やULOCOのアイテムはイノクチさんがほぼ一人で担っている。
家業の基本姿勢は継承し、ムダは省く
家業で失われていた刺繍機による製造を復活させたイノクチさん。モノづくりに対する基本的な向き合い方は、家業のアパレルメーカーの頃から変わらず守っているという。
イノクチさん「既製品の生地を仕入れて売れそうなデザインで大量に作って右から左に売っていくっていうやり方は、以前の会社でもやっていなかった。手間ひまという付加価値をつけたものを、わかってくれる方に売る、という姿勢は継承しています」
一方で、イノクチさんの代で変えたのが、営業戦略だ。
イノクチさん「自分を含め、営業ではムダな動きはしません。とりあえず時間潰し的に営業に回るみたいなことはムダだし、10軒取引先を増やすより、1軒で10軒分の売り上げを上げた方が良いわけですから」
これは、Uターン直後に担っていた営業での経験が生きている。また、ULOCOの取引先の数は7店舗と決して多くはないが、どこもブランドの価値観を理解して販売してくれている店だ。そして、イノクチさんからアプローチしたのではなく、いずれも店舗サイドから取り扱いを希望され、取引が始まったという。
モノに力があればどこでもやれる
ファッションの作り手としての将来を夢見ながらも、志半ばで終わった東京時代。結果的に、イノクチさんは福岡でその夢を叶えたことになる。しかし、やはりチャンスを掴むためには東京が良いとイノクチさんは言う。
イノクチさん「まず人口が違いますからね。イベントや展示会をやるにしても見てくれる人の数が多いですし、情報量も圧倒的です。でもある程度、商品力やブランド力がついてニーズが出てくれば、地方でもやれます」
自身が生まれ育った場所、福岡に戻り好きなことを生業にできている現状に、満足度は「1000%」と答えてくれたイノクチさん。最低でも100%であるべきだし、満足していないのなら不足を埋める行動をするべきだという。
イノクチさん「もし今満足してないなら、東京に行けば良いだけだし、ずっといなくてもいいし。少なくとも今の状況に満足しているから、福岡にいます。福岡はもちろん好きですが、東京も好きですし、よく行くインドも好きですよ(笑)」
自分が納得でき、自分が生み出すモノに人を引きつける力があれば、どこにいてもやっていける。
故郷に帰るかどこかへ移住するか、これからの生き方や働き方に迷っているなら、イノクチさんのこの言葉が、背中を押すきっかけになるかも知れない。
●ブランド公式サイト
ULOCO