世界のなかで最貧国の一つとも称され、多くの社会課題を抱えながらも、着実に経済成長を続けるバングラデシュ人民共和国。この南アジアの途上国に移住し、教育支援のIT事業を立ち上げた女性がいる。日々、想定外のトラブルに見舞われながらも、彼女が目指すのは、“世界平和”の実現だ。
ビジネスで、世界平和を実現したい。
国土は北海道の1.7倍ほど。人口は世界第7位の1億6000万人以上。世界有数の人口密度を誇る巨大国家・バングラデシュは、その圧倒的な労働力もあって「世界の工場」として発展を続けている。その一方で、都市部の人口はパンク寸前まで増加し、都市整備がまったく追い付いていない状態だ。さらに国民には貧困層も依然として多く、昨年は大規模なテロ事件も起こるなど、大小さまざまな問題がそこかしこにある。そんなバングラデシュで『Venturas』というベンチャー企業を設立したのが、上田代里子さんだ。なぜこの国をビジネスの舞台に選んだのか?そして、どんな社会課題の解決に取り組んでいるのだろう?
ソトコト(以下S) まずは上田さんがバングラデシュに興味を持ったきっかけを教えてください。
上田代里子(以下上田) 2011年にバングラデシュのムハマド・ユヌス博士が「マイクロファイナンス」でノーベル平和賞を受賞されましたよね。そのニュースを通して、100万人以上の顧客の生活改善に貢献しているなんて、マイクロファイナンスって、すごいビジネスモデルだなと強い興味を持ったことがきっかけです。
S マイクロファイナンスへの興味から始まったのですね。
上田 当時はまだ日本の企業に勤めていたのですが、「現地で勉強したい」と、1か月の休みを取得してバングラデシュへ行き、首都・ダッカの大学で外国人向けのマイクロファイナンスに関する短期集中コースに通ってみたんです。
その講義の中で、いわゆる“恵まれない”層の生活レベルを相対的に高めていくためには、マイクロファイナンスのような「お金へのアクセス権」に加えて、「医療」「住宅」「教育」の4つの柱でのアクセス権が必要だと知りました。これらを全体的に高めなければ、一人ひとりがよりよい未来を選択できる状態にはならないと学び、そのことに共感し、この4つの領域のいずれかで事業を立ち上げようと決めたんです。
S もともと社会貢献のアイデアや手立てを探していた?
上田 そうです。はじまりは6歳の頃に観た、湾岸戦争やソマリア危機のニュース映像でした。お腹だけがぽっこりと出たガリガリの子どもたちの姿や、戦火で家が真っ赤に燃えている光景をテレビを通して目の当たりにして、「生まれた国と親が違うだけで、どうしてこんなに境遇が違うんだろう」と、子どもながらに強烈なショックを受けたのです。それからずっと、世界平和を目指す手段や知識を探してきました。
S 6歳の頃から、上田さんの思いは始まっていた。
上田 学生時代にはさまざまなNGOにも参加しました。ただ、経験を積む中で、事業の拡張性と持続性のことを考えれば、NGOでやるよりもビジネスを起こすほうがいいのではないかと思ったんです。そこでまず一度、ITマーケティングなどを手掛ける企業に就職して、事業を立ち上げる力や問題解決力を磨きつつ、世界平和につながるビジネスアイデアを探すなかで、出合ったのがバングラデシュだったのです。
99%の生徒がついていけない、バングラの教育環境。
S 世界平和を考えても、途上国への移住や現地での起業を実行することはなかなかできないと思います。
上田 我ながら、相当無謀だと思います(笑)。4つの柱のうち「教育」をテーマに選びましたが、教育と一口に言っても、幼稚園から大学、社会人向けの職業訓練やビジネススクールもあります。幅広い選択肢の中で、どんなサービスが求められているのかは、実際に現地に身を置いてみなければわかりません。
S 日本である程度ビジネスモデルを構築していたわけではないんですね。
上田 2015年3月に100パーセントのローカルスタートアップとして『Venturas』を設立して、最初に取り組んだのが市場リサーチでした。その中で小・中学・高校の卒業試験のスコアが一生ついて回る学歴社会でありながら、めちゃくちゃな教育が行われていることが分かってきまして。
S めちゃくちゃな教育とは?
上田 バングラデシュは生徒・学生人口が約3000万人とされているのですが、あまりに人数が多すぎて学校の設立が間に合っていない。もちろん教員の数も供給不足です。その結果、1クラスに平均100〜200人の生徒が詰め込まれてしまい、教室の後ろのほうにいる生徒は黒板すら見ることができません。おまけに、クラスを午前・午後で分けている学校もあり、生徒1人あたり1日3.5時間ほどしか授業が受けられないケースもあります。
S 想像もつかない状態ですね……。
上田 当然、生徒は授業についていけませんから、99パーセントの子どもたちが家庭教師や塾などの教育サービスを活用するんですね。その結果、スラムでも、中間層や富裕層でも、家計支出の2〜4割が家庭外学習のための費用になり、生活が苦しくなってしまいます。
S 教育費が、家計をかなり圧迫しているのですね。
上田 1人あたりの年間GDPが約1500ドルの国で、所得の低い家庭であっても、少しでも子どもに質の高い教育を受けさせようと、無理を重ねています。こうした教育環境と教育の質を変えるために、私たちが開発・提供に注力しているのが、中学・高校・予備校などのクラスルームで活用できる学習ITプラットフォーム『PODOKKHEP(ポドケップ)』です。
S それはどのようなサービスなのでしょうか?
上田 たとえば大手通販サイトだと、その人自身の興味、関心や購買履歴に合わせて「これにも興味があるのでは?」と、自動でレコメンドしてくれますよね。『PODOKKHEP』もアイデアは同じで、生徒それぞれの小テストのデータを蓄積し、「あなたはこのトピックが弱いので、改めて解いてみましょう」とレコメンドしてくれるわけです。
この学習プラットフォームがあれば、教員の経験・知識・勘といった質に左右されることなく、ITのサポートによって子どもたちの理解力や成績を高めることができます。まだダッカの公立中学校で導入し始めたばかりですが、少しずつ成功事例を積み重ねて、他校へと展開していきたいと思っています。
洪水、渋滞、テロ……。心が折れても走り続ける。
S それだけ課題が多いと、上田さんが手掛ける教育サービスへの関心も高いのでは?
上田 若い子は適応力が高いので、すぐにITシステムを受け入れて、楽しんで勉強していますね。ただ、その父親、母親世代はITやスマホのことを、ゲームをして遊ぶもの、勉強の邪魔になるものというイメージを強く持っていて、抵抗感も根強いです。それにバングラデシュの場合、事業を阻害する外部要因が、日本と比較できないくらい圧倒的に多いんですよね。
S 異文化ですから、障壁も多そうです。
上田 文化や商習慣の違いはもちろん、今年は異常気象でモンスーン・シーズンが長引き、国土の6割が水中に沈んでいて、道が川のようになってボートで出勤したり、「雨が降ったから会社を休みます」という人もたくさんいます。そうでなくても、計画性のない都市開発や技術の低い道路工事の影響で、道路は常に大渋滞です。昨年のテロの影響で治安も悪化し、さらに地元警察や政府機関からの賄賂目的の嫌がらせもよく受けます。
S お話を聞いているだけで心が折れそうです……。それでも上田さんが前進し続けられる理由は何なのでしょうか?
上田 心は折れますよ、何度でも(笑)。想像を超えるようなことが当たり前に起こるし、その都度すごくショックを受けています。特にテロなどは、どんなに気をつけていても、突然すべてが一変してしまう可能性がある。でも、だからこそ、もともとやりたかったことを、“納得感”をもって、とことんやりきることが大事だと考えるようになりました。
S 「世界平和」が上田さんの目標とすると、バングラデシュ以外での展開も検討されているのでしょうか?
上田 おっしゃるとおり、バングラデシュは出発点で、ここに限定するつもりはありません。
S 今後のビジョンを伺えますか?
上田 会社では「2032年ビジョン」を設定しています。15年後までに、事業を通じて世界の数億人に対して人生を好転できるようなインパクトを与えたいと考えています。そのために、世界複数国で事業展開を行い、それぞれのローカルな文脈にマッチするサービスやプロダクトを提供していくつもりです。
S それはやはり途上国でしょうか?
上田 私は「世界平和を実現できている状況」を、できるだけ多くの人が自分の行動を主体的に選択できて、自分から未来をつかみにいける状態だと考えています。アジア・南米・アフリカなどエリアは限定しませんが、次のステップもきっと途上国や、新興国になりきれていない国から選択することになります。
S 上田さんと『Venturas』の今後の15年を楽しみにしています。
上田 “Venturas”は、スペイン語で「ベンチャー(Venture)」を意味する言葉なんですね。英語だと冒険を表す単語ですが、スペイン語の場合はもうひとつ、「幸運」という意味もあるんです。リスクをとって冒険をした先にこそ幸運が待っていると思いますので、納得感をもって全力で走り続けたいと思います。