彼らは打ち捨てられた工場で、死体処理の仕事をしている。
「今日の誠実な汗が明日の幸せ」。工場の壁に掲げられたこのスローガンをクローズアップで見せるなど、『声もなく』には全編を通してホン・ウィジョン監督のアイロニカルなユーモアが利いている。
ふたりは裏稼業の男たちがやったことの後始末を、仕事として全うしているだけのはずだった。だが、1日という約束で、誘拐された少女・チョヒを預かったことから、トラブルに巻き込まれてしまう。
チャンボクに押しつけられ、テインは仕方なく、幼い妹・ムンジュと暮らす家に少女を連れて帰る。押し込まれた小屋の、足の踏み場もない散らかり具合に唖然とするチョヒ。だが、兄に懐くムンジュの様子を見た彼女は、自分のするべきことを考え、行動に移す。
大事なのは弟で、自分の身代金を出し渋っている――賢いチョヒは、大人の話を耳に挟むまでもなく、親の態度を察知している。家は(犯人が身代金を狙うくらい)裕福でも、そこに自分の居場所はないチョヒと、おそらく親とはほとんどつながりのないテイン。
束の間、疑似家族の様相を呈する三人を見ていると、あれ、この子、誘拐されているんだっけ? と、一瞬、事態を忘れそうになる。だが、彼らはそれぞれの孤独によって儚くつながっている。
声なきテインの、裡から滲み出る表情や動きが、ことばよりも深く、強く、感情を伝えている。
チョヒを受け渡された部屋のピンク色の壁。テインが毎日、自転車で走り抜ける、一面の青田の鮮やかな緑。広い空を薔薇色に染める、息をのむような夕焼け。脳裏に鮮やかな色が残る映画だ。
踊りとは何か。答えの出ないことを承知のうえで、その問いを問い続ける。田中泯さんにとって、生きることは踊りを探し続けることなのだと、『名付けようのない踊り』を観ながらそう思う。
国内外のいろいろな場所で、そこに宿る声なき声や記憶に感応しながら、場を踊る。見えない何かと交感するダンサーは、時間を超越した存在と化す。その神々しい姿は、観る者にも、それぞれの記憶の糸を辿らせてゆく。
盆踊りの輪の中で我を忘れて踊ったこと、ひとり野山で自然や生きものと戯れたこと……少年時代の心象風景を描くアニメーションに、泯さんのルーツが見てとれる。
野良仕事、薪割りなど、日々の営みの延長にある肉体と精神、その美しい佇まいが胸に滲みる。