とき

連載 | こといづ | 95 とき

 年末年始になると、久しぶりに家族で集まって、甥っ子や姪っ子と遊ぶのが何より楽しい。今年は妻の従兄妹の子どもたちとはじめて会った。公園で遊んでいると、真っ直ぐにキラキラした眼の男の子が走ってきた。「僕のお姉ちゃんが高木さんにピアノを教えてほしいってずっと言ってるけん、今からうちに来れん」ともじもじせずに聞いてくれて、なんとも純粋なかがやきに卒倒しそうになった。歳を取ると、こういうことになぜか感動して涙が出そうになる。家に上がると、電子ピアノがあって、同じキラキラの眼をしたお姉ちゃんが待っていた。


 教えるよりも一緒に真剣にピアノを弾いたほうが伝わるものがあるかもしれないと、みんなで横に並んで演奏してみた。小さな女の子と男の子が2時間も集中して、いろいろな音を響かせた。深呼吸して〜、やさし〜く、テラテラテラ、思いっきり、ドドドドドド〜。途中、何度も「ああ、とてもいい集中のなかにいるなあ。音楽のなかだなあ」と嬉しくなった。どんな大人になっていくのか本当には分からないけれど、なぜだろう、曇りのない真っ直ぐな魂は大人になってもそのまま変わらないだろうというのがよく分かった。


 そんな子もいれば、また別の、小学生になったちょっと不思議な甥っ子もいる。しばらく一緒に遊んで慣れてくると、いつも持ち歩いて大切にしている分厚い本を見せてくれる。それがまた、恐ろしい本ばかりで。未確認生命体、伝説の巨大生物、おどろおどろしい妖怪、お化けに幽霊、りに呪い、ひえええ。僕なんかは、そういう恐ろしい世界は頭に入れてしまうとなかなか消せなくて困るので、人生で極力避けてきた。甥っ子はもう何年もそういうおっそろしい世界に魅了され続けていて、ははあ、変わってるなあと思いつつも、いや待てよ、こうしてわざわざ本にまとめて出版している大人がいるのだから、その人たちも甥っ子と同じく、毎日恐ろしいことを考えて楽しいのだろうなと、この子が大人になった姿をぼんやり想像してみると、前よりも何か大人同士というか子ども同士でもなく、人間同士、お互い変わってるよなあ、ふふふっと笑ってしまう。


 この世界に生まれて間もない赤ちゃんを見ていても、もうすでにこの子の中にいっぱい未来が詰まっていて、どんな人間になるか決まっているのかなと感じさせられる。「未来」というと、ずっと先にある分からないものと捉えてしまうけれど、いまここに、この子にも自分の中にも、あそこにもここにも「未来」がすでにあると感じられると、区切っていたはずの時間やものごとが揺らいでいって、さっきまでの現実がとても小さなものになっていく。


 いま、こうして明けても暮れても音楽を作る毎日を送っているけれど、いつ頃、音楽に興味を持ったのだったっけ。記憶を手繰り寄せると、5歳の頃には自分でも音楽を作ってみたい、と思っていた気がする。というより、いつか遠い未来に自分は音楽を作るんだと思っていた気がする。だから、楽器も弾けないし、ろくに歌えもしないのに、テレビやゲームから流れてくる音楽を耳にしては、これはいつか自分に関係するものだと、それはもう真剣にドキドキしながら接していた。例えば、みんなが夢中になったファミコンのゲームをやっていても、友達と話題になるのは、「どこまで進んだ」とか「あの強い敵をどうやったら倒せるか」というものだったけれど、僕が一番気になっていたのは、なぜこの音楽が流れると優雅な気持ちになったり不安な気持ちになるのだろう、どうやってこの音楽を思いついたのだろう、とそんなことばかり気になっていた。なので、作り手のインタビューが載っている雑誌などを覗いてみては、「この曲は、広い世界をたった独りで冒険しなければならないので、少し寂しくした」という作曲家の言葉に共感したり、音楽だけが録音されたカセットテープを買って、おまけについてきた楽譜を読めもしないのに眺めながら何度も繰り返し聴いて、仕組みを理解しようとしていた。


 音楽の仕事をしている今から振り返ると、当たり前のように思うけれど、楽器も持っていない、弾けない、導いてくれる人もいないのに、そんなことに夢中になっている子どもの時の自分ってなんだったんだろうと思う。同じ目線を、いま、目の前にいる妻に向けると、彼女は今日も一日中絵を描いていたけれど、出会った頃は、絵を描いてなかったし、絵描きになるべく学校に通ったり誰かに習ったわけでもなかった。でも、絵を描くことになるんだろうなというのは、出会った時から知っていた気がする。

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