東京都新宿区歌舞伎町の雑居ビルで40年間、扉を開き続けている碁会所がある。囲碁ファンなら誰もが知る、碁会所『碁席秀策』だ。大人も子どもも、外国人も通う『碁席秀策』の魅力の中に、場づくりのヒントを見つけました。
歌舞伎町に1軒残る、 碁会所は「人間交差点」。
席亭(店主)は、桑原青人さん。親の仕事の関係で中国・北京市で幼少期を過ごし、8歳のときに終戦を迎えた。日本へ引き揚げる船で見知らぬお年寄りから習ったのが囲碁との出合い。以来77年間打ち続け、プロ級の腕前を持つ。
その囲碁愛が高じて、1982年、歌舞伎町に碁会所を開いた。現在の二丁目ではなく、最初は西武新宿駅前の一丁目の雑居ビルで創業した。「囲碁を嗜む方なら誰でもご存じの藤沢秀行さんは、私が中学生の頃からの碁敵(親しい囲碁友達)。ある晩、一緒に飲んでいるときに、『歌舞伎町で24時間、トコトン囲碁が打てる碁会所をつくろう!』と提案され、一緒につくったのです」と桑原さんは、奥の部屋に飾られた藤沢秀行氏の肖像写真の前で当時を振り返る。
「秀行先生が来る店」としても人気を博し、世界中から囲碁ファンが訪れる碁会所となった。ただ、桑原さん曰く、「その頃が囲碁人気のピークで、囲碁人口は約1000万人いました。それが今や200万人足らず。狭い歌舞伎町に10軒あった碁会所も、うちだけになりました」と寂しげに語る。
そんな囲碁人口減少の時代でも活況を呈している『碁席秀策』。その理由は、日本一の繁華街・歌舞伎町にあるからか、プロ棋士から初心者まで多様な棋力(囲碁の強さ)を持つ相手と打てるからか、桑原さんをはじめ切り盛りする娘さんたちの陽気な人柄からか、はたまたラーメンやカレーを食べ、何ならお酒も飲みながら碁を打てる自由な雰囲気が好まれるからか。
全部、正解。ただ、いちばん大きな理由は、囲碁を打つ相手をうまく組み合わせてくれるからだろう。「一人で来店されるお客様が多く、対局相手を見つける必要があります。それを4人の娘たちがやってくれています」と桑原さん。とくに長女の坊野恭子さんは、来店客の個性を記憶し、対局相手を絶妙なさじ加減で紹介している。「知らない方に『打ちませんか?』と声をかけづらいでしょうから、私が間に入って、『お二人、どうですか?』と対局を勧めています」と恭子さん。対局を終えた席があると、すっと近寄り、「次はあの方と打ちませんか?」とか、「今、初めての方が来られたのですが、いかがですか?」と声をかける。「いいですよ」とお客さんがそれに応じると、新たな対局が始まる。「ここは、いろいろな方が集まる『人間交差点』。その交通整理をするのが私たちの役目です」と、恭子さんは言う。
囲碁の対局で人とつながり、 新たな「人生の一手」を。
四女の片山由江さんは、「組み合わせがうまくなる方法を恭子に相談したら、『お客様を家族だと思えば、楽しませてあげたくなるでしょ』と。以来、お客様は叔父や甥っ子だと思って接しています」。だからだろう、『碁席秀策』にアットホームな雰囲気が漂っているのは。「ぺったん、ぺったん。ここで味噌づくりをしたこともありますよ」と由江さんたちが醸す雰囲気の中で碁を打っていると、碁以外の会話にも花が咲き、気心が知れて友達になったり、人生が広がったりもしそうだ。山登りが趣味のお客同士で「秀策 山の会」が結成されたり、「気心が知れすぎて結婚された方もおられますよ」という。
初めて訪れるお客のドキドキ感をほぐすのは、インストラクターの愛宕山京佑さんだ。「同じことを100回聞かれても、懇切丁寧にお答えします」をモットーに囲碁を教えている。愛宕山さんも対局相手から、「囲碁だけでなく別の仕事にも挑戦してみては」とアドバイスされ、興味があった占いの世界に飛び込んだ。「今は占い師でもあります」と、『碁席秀策』で人生が広がったことを喜ぶ。
囲碁講師の井場悠史さんは、中学生の頃から『碁席秀策』に通っていた。「強くなりたい一心で大人と対局していました。ただ、囲碁以外の話もすることで人生勉強をさせてもらったと思います」と話す。「囲碁を習う子どものうちプロ棋士になれるのは100人に1人か2人。中学生がプロになるのも当たり前の世界で、プロになれなかったときに備えて、いろいろな生き方があることも教えています。僕がここで学んだように」。
今、オンラインで対局相手を見つけて碁を打つ人が増えている。でも碁会所へ足を運び、顔を合わせ、指南し合いながら打つからこそ身につく力もある。まだ打ったことのない「人生の一手」さえひらめくかもしれない碁会所の扉を、ドキドキしながら開けてみよう。
記事は雑誌ソトコト2022年11月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。